アンビリバボー ウズベキスタンのオペラハウス「ナヴォイ劇場」の桜とプレート タシケントに抑留された捕虜 永田行夫大尉 4月20日
奇跡体験!アンビリバボー(2017年4月20日放送)は、異国の地で桜を想う日本人の心の奇跡として中央アジアのウズベキスタンの首都・タシケント市内に咲く1000本もの桜のエピソードが紹介されます。
第二次世界大戦終了後、1945年~1946年の間、ソ連の捕虜となった日本人は旧ソヴィエト各地に抑留され、満州の旧陸軍航空部隊の永田行夫大尉を隊長とする第4ラーゲリ(収容所)の457人の元工兵らはウズベキスタンに送還され、ソ連政府の革命30周年を記念したオペラハウス「ナヴォイ劇場」の建設を課せられました。
極寒の地で満足な食事も与えられない状況下での強制労働は、過酷を極まり、元日本兵達の疲弊は重なっていきました。
しかし、永田隊長らは、決して日本への帰国を諦めていませんでした。
※福岡県南区の桧原桜(ひばるさくら)の伐採を食い止めようとした名も知らない者同士の桜を守ろうとする短歌のリレーの果たしたゴールの奇跡関しては別ページに投稿しています。
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ウズベキスタンのオペラハウス・ナヴォイ劇場
ウズベキスタンの首都・タシュケント(タシケント)にあるオペラとバレエのための劇場・ナヴォイ劇場(ナボイ劇場)は1966年4月26日の震度8の大地震「タシュケント地震」で市内の2/3の建物が倒壊したのにも関わらず震災の被害を受けず、そればかりか避難所としても活用され、現在も威厳を保つ様に今でも美しく佇んでいます。
そして春には美しい桜が花開きます。
ナヴォイ劇場の建設に関わった日本人抑留者に感謝する碑
ナヴォイ劇場(ナボイ劇場)外壁にはウズベク語、日本語、英語で書かれたプレートが、ひっそりと佇んでいます。
そのプレート(碑)には「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百名の日本国民がこのアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
と記されています。
シベリア抑留兵がウズベキスタンのインフラ構築に貢献
太平洋戦争も終焉に近づいた1945年8月9日、ソビエト連邦軍が、日ソ不可侵条約を一歩的に破り、中国の満州に攻め込み、日本兵を捕虜として、シベリア送りにし、戦後も劣悪な条件で、労働者として強制的に働かせるシベリア抑留を行いました。
シベリア抑留者から中央アジアのウズベキスタンに23000人~25000人が抑留者が選抜され、インフラ構築に従事する事となりました。
ナヴォイ劇場(ナボイ劇場)は、日本人抑留者が建設に携わり、他にも日本人の造った道路や発電所などの施設は、 いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとして残っています。
ナヴォイ劇場建設の工期短縮の為、日本人捕虜(抑留者)の中から工兵を中心に18歳~30歳までの457人が選抜され、リーダーに選ばれたのは、奉天の第10野戦航空部隊で航空機の修理を担当していた永田行夫大尉(24歳)でした。
永田行夫大尉は「全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会すること」を目標に掲げました。
しかし環境は劣悪で、寝床にはシラミが湧き、食事はノルマ制で、仕事のノルマにより分量が分けられ唯でさえ少ない食事が人により殆ど食べられない量でした。
食事の量の改善
そこで永田行夫大尉はノルマに関係なく全員同じ量の食事を分配する事にしました。
しかし、それが監視兵の密告で、収容所のアナポリスキー所長に伝わり、永田行夫大尉は収容所のアナポリスキー所長に問いただされました。
永田行夫大尉はカマをかけて
「社会主義の国では働いて得たモノはどう処分しても良いとうかがいました」
と言うとアナポリスキー所長は「そうだ」と答えました。
そこで、「ノルマを達成した兵が、ノルマを達成できなかった兵に分けた結果、偶然、皆同じ量の食事の量になってしまったのです!」
とやり返すと、アナポリスキー所長は、一本取られた!とばかりに笑い、その後は食事は抑留者には平等の量が与えられる様になりました。
それだけでなく、ロシア人を良く思わないウズベキスタン人がこっそり差し入れをくれる事も多々有りました。
ある日、子供がこっそり差し入れをし、その翌日、抑留者が、手作りの木の玩具をお礼に子供にプレゼントするなどウズベキスタン人との交流も始まりました。
ナヴォイ劇場のみならず、発電所などウズベキスタン人と日本人が共同で作業する場所も有り、ウズベキスタン人にとって日本人の勤勉さは話題になっていました。
日本人としてのプライド
1946年工期を更に早める為にナヴォイ劇場建設の為、日本大学・建築学科卒の若松律衛(りつえ)少尉が工事全般の日本側総監督として着任しました。
若い若松少尉は収容所のリーダーの永田行夫大尉にアドバイスを問いに来ました。
永田行夫大尉の若松少尉に対するアドバイスは以下の通りでした。
ソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを作りたいと思っている。
捕虜としてやるのだから別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。
しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。
さすが日本人たちの建設したものは”出来が違う”と言われるものにしたいと本気で思っている。
ナヴォイ劇場完成
転落事故と列車に轢かれる事故で2人の犠牲者を出す不幸も有りましたが、1947年遂にナヴォイ劇場は完成しました。
辛い環境での作業でしたが、日本人抑留者達の心の拠り所は春に咲く桜でした。
必ず帰ってもう一度「桜」を見よう!
と励まし合っていたのです!
それだけでなく、永田行夫大尉の居る留置所はアナポリスキー所長の様にロシア兵としては信じられない穏健な兵士がいた事も幸いし、何も楽しみがない留置所で木を使い手作りの麻雀パイで麻雀に興じると監視役のロシア人兵士が興味を持ち仲間に加わるなど、異例の一体感が有りました。
9月中旬ナヴォイ劇場に日本人抑留者、ウズベキスタン人、そしてロシア人が集まり
永田行夫大尉は、「この劇場は、日本人、ウズベキスタン人、そしてロシア人の汗と涙の結晶です」
と挨拶し、国籍を問わず喜びを分かち合い抱き合いました!
そして永田行夫大尉は、日本人抑留者達に最後の訓示をします。
「日本は米国の爆撃で焦土と化していると聞きます。
ここで学んだ礎を活かし、日本を再建し、世界から敬意を抱かれる様な日本人になって下さい。」
プレートの日本語訳を修正
ナヴォイ劇場は予定通り、ソ連政府の革命30周年の1947年完成しました。
永田行夫大尉達日本人抑留者が帰国し、半世紀近く経った1991年ソ連が崩壊しウズベキスタンは独立しました。
そして、ここで奇跡が起こります!
日本人の功績を称えるナヴォイ劇場(ナボイ劇場)のプレート(碑)が掲げられましたが、そのプレートが完成直後に、故・イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ ウズベキスタン共和国初代大統領の命令で修正を加えられています。
碑にかかれた日本人に関する記述は当初「日本人捕虜」だったのですが、故・カリモフ ウズベキスタン共和国初代大統領は「捕虜」と言う記述を「極東から強制移住させられた数百人の日本人」に修正させました。
独裁者として非難されていたアブドゥガニエヴィッチ元大統領は、実は親日家で、1997年に麻生太郎氏と面談時に、幼いころ母親に日本人捕虜収容所に毎週末連れられ、勤勉に働く日本人抑留者の姿が目に焼き付いており、母親からは、
「日本人の兵隊は、ロシア兵の監視が無くても、誰に見られていなくても勤勉に働く。
お前も大人になったら他人から見られていなくても勤勉に働くような人間になりなさい。」
と躾けられており、その母親の言いつけを守ってきたお陰で大統領まで上り詰める事が出来たと言うエピソードを話したのです!
日本人の勤勉さが幼少の頃から目に焼き付いていたカリモフ元大統領は
「ウズベキスタンは日本と戦争はしていない。
それどころか日本人の兵隊は、ウズベキスタンの恩人だ。
碑(プレート)に捕虜と書いてはならない。」
と命令したのでした。
カリモフ元大統領は、1966年4月26日、タシケントを地震が襲い市内の建物の2/3が崩壊しましたが、日本人捕虜が建設したナヴォイ劇場は被害を受けず、避難所としてウズベキスタン人を助かった事も覚えており、ウズベキスタン人の恩人して日本人を評価していたのでした。
まとめ
ウズベキスタンとの友好の証としてナヴォイ劇場の公園には日本から桜が植えられ春には美しく桜が咲き誇ります。
桜がナヴォイ劇場を始め、ウズベキスタンに咲く様になったキッカケとなった「ヤッカサライ墓地(タシケント日本人墓地)」の桜の木のエピソードは別ページに投稿いたしました。
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→ この投稿は永田行夫大尉にインタビューを行ったジャーナリスト嶌 信彦 書籍「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」を基に構成しています。
もっと詳しく知りたい方は是非お読み下さい。
本日は最後までご覧いただきありがとうございました。
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