アンビリバボー ウズベキスタン ヤッカサライ/タシケント抑留日本人墓地の桜とナヴォイ劇場建築で抑留された捕虜 永田行夫大尉 4月20日

2018年8月30日

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奇跡体験!アンビリバボー(2017年4月20日放送)は、第二次世界後、ソ連軍の捕虜となり中央アジアのウズベキスタンに抑留され、オペラハウス「ナヴォイ劇場」の建設に従事した陸軍・永田行夫大尉と桜の奇跡が紹介されます。
その影には、帰国を果たせず異国の地で没した日本人抑留者を弔う為、ヤッカサライに日本人墓地を整備上し友好の証として桜を植え現在はの首都・タシケント市内に咲く1000本もの桜が春に咲くエピソードがあるのをご存知ですか?

※オペラハウス「ナヴォイ劇場」を建築した陸軍・永田行夫大尉と桜を巡るエピソードに関しては別ページに投稿しています。

オペラハウス「ナヴォイ劇場」を建築した陸軍・永田行夫大尉と桜を巡るエピソード

※福岡県南区の桧原桜(ひばるさくら)の伐採を食い止めようとした名も知らない者同士の桜を守ろうとする短歌のリレーの果たしたゴールの奇跡関しては別ページに投稿しています。

アンビリバボー 桧原桜物語(ひばるさくら)福岡 短歌のリレーのエピソード

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ヤッカサライ墓地(タシケント日本人墓地)

ウズベキスタン・タシケント市南東地区のヤッカサライ通りの公営墓地の一角に日本人抑留者共同墓地(タシケント日本人墓地)が設けられており、日本から送られた桜が毎年花を咲かせています。

この墓地は安倍首相も慰霊に訪れており、墓地のモニュメントには


ヤッカサライ墓地より79名タシケント地区墓地より8名計87名の日本人が眠る


と記されています。

今でこそ立派な墓地ですが、ソヴィエト時代には土を盛っただけで捕虜の番号と思われる6桁の数字が記されているはがき大の小さな鉄板が刺してあるだけでした。

ソヴィエト時代は墓標を作る事は許されませんでした。

抑留の被害があった事は隠蔽されていたのです。

しかしウズベキスタンのタシケント市民はささやかな抵抗で尊敬する日本人犠牲者の為に墓地が荒れ果てない様、雑草をかるなど最低限の敬意を払ってくれていたのです。

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2000年(平成12年)10月19日ウズベキスタンで「日本の祭り」が開かれ、中山恭子在ウズベキスタン大使(当時)は、宮崎からやってきた親善訪問団池田明義さんから相談を持ちかけられました。

池田明義さんは抑留者としてタシケント州ベカバード市で水力発電所の建設に携わっていました。

池田明義さんは中山ウズベキスタン大使のは図らいで水力発電所と日本人墓地を訪れましたが、水力発電所は今も立派に動いていのに、帰らぬ人となった戦友が眠る墓地は、土が盛ってあるだけの見窄らしさに愕然とし、日本人のお墓の整備を嘆願されて、日本に帰りました。

嘆願された中山ウズベキスタン大使は日本人墓地を訪れ、土を盛っただけの墓に愕然としました

その後、ベカバード市長のジャロリジン・ナスレジノフ氏と面会し、日本人墓地の整備を相談しました。

ナスレジノフ氏によれば
「ベカバード市は発電所が建設される前は砂漠であったが、3,000人の日本人抑留者が建設に携わた発電所や運河のおかげで、ベカバード市は緑豊かな大勢の人が住む町に成長し、発電所は災害にも負けず、55年もの間、1日も休まずウズベキスタンに電力を供給しているのですよ」
抑留者の功績を称えたのです!

そして、ベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に案内され墓地の管理を行ってれている老人を紹介されました。

そのご老人は3,000人の日本人抑留者と一緒に発電所建設に携わっていて日本人の勤勉さに尊敬の念さえ抱いていた、と当時の話をしました。

日本墓地の有るベカバード市の視察が終わる中山大使は共同墓地の整備の為、抑留者に対する資料収集を始め、また日本側では墓地整備の為の募金活動が開始され、約2,000万円が集まりました。

そして、ウズベキスタン政府に日本人墓地の整備の嘆願をすると即座にスルタノフ首相(当時)の回答が有り、それは思いもしない回答が返ってきました。

ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なので日本人墓地の整備はウズベキスタン政府が責務を負う

との回答でした。

日本とウズベキスタンとの友好の証としてウズベキスタン政府が責任を持ちたいと切り出したのでした。

それだけでなくソビエト時代にモスクワの命令とは言え墓地の整備が出来ていなかった非礼を詫びるという心尽くしの対応でした。

また、募金の2000万円を提示しましたが、ウズベキスタン政府の誠意は徹底しており、お金を一切受け取らず、地元民のボランティアにより、石を切りだして白い墓石や「鎮魂の碑」「抑留者記念碑」などを作成し、雑草が生えない様に砂利をひくなど墓地の整備し、エリヤル・ガニエフ大臣のアドバイスにより墓地に続く車道も整備され、1年程で日本人墓地は完成しました。

その周辺には日本から持ち込まれた桜の苗木が植え付けられました

実は、中山大使は殺風景な墓地に桜の木を植えられないか考えていたのです。

元抑留者から「必ず日本に帰ってもう一度「桜」を見よう!」と励まし合って劣悪な環境で働いた話を聞いており、見果てぬ故郷を想い帰国を果たせなかった抑留者の為に果たせなかった夢を叶えたいと思ったのです。

そして、ウズベキスタン側からの「建設中の中央公園にも桜の木を植えたい」との逆提案も有り、日本人墓地だけでなく、中央公園と公園沿いの大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1,300本もの桜の苗木を植える事となりました!

そして集まった募金の使い道は、日本側から感謝の気持ちとして、ウズベキスタンに有る13カ所の日本人墓地の地域の学校に日本製のコンピュータを寄付する為に使われました。

必ず日本に帰ってもう一度「桜」を見よう!

という願いも叶わず、没した日本人が眠る墓地には、今、桜並木が植林され、ウズベキスタンの土の中に眠る日本人抑留者達を見守っています。

元抑留者の嘆願がおよそ半世紀経ち、永田行夫大尉達職人肌の抑留者がプライドをかけ建築し、震災にも耐え賞賛されたオペラハウス「ナヴォイ劇場」の公園にも桜が春、花開く様になり、元抑留者達の心を遠い異国のウズベキスタンで癒やし続けています。

まとめ

ロシアのエカティリンブルグというモスクワ、サンクトペテルブルグに次ぐロシア第3の都市に友人を訪ねた所、通訳の方が
「この街はドイツ軍の抑留者(捕虜と言ってました)が造ったんですよ」
と説明してくれました。

その顔は元敵国民を憎む顔では無くてドイツ人抑留者の事を尊敬する誇らしげな顔だった事を今でも思い出します。

シベリア抑留といえば過酷な環境で何もない自然を開拓するイメージをもっていましたが、「ナヴォイ劇場」を建築した永田行夫大尉を始め、砂漠に発電所に作り、ウズベキスタンのインフラ構築に携わった池田明義さんなど日本人としてのプライドを持ち続け、他国の国作りに貢献した元抑留者の皆さん、ドイツの抑留者の皆さんの事を語り継いでいきたいです。

この投稿は中山恭子元ウズベキスタン大使の書籍「ウズベキスタンの桜 」を基に構成しています。
もっと詳しく知りたい方は是非お読み下さい。

※オペラハウス「ナヴォイ劇場」を建築した陸軍・永田行夫大尉と桜を巡るエピソードに関しては別ページに投稿しています。

オペラハウス「ナヴォイ劇場」を建築した陸軍・永田行夫大尉と桜を巡るエピソード

※福岡県南区の桧原桜(ひばるさくら)の伐採を食い止めようとした名も知らない者同士の桜を守ろうとする短歌のリレーの果たしたゴールの奇跡関しては別ページに投稿しています。

アンビリバボー 桧原桜物語(ひばるさくら)福岡 短歌のリレーのエピソード

※サムネイル、ブログ中の画像は、宮城県公式HPのみやぎ海外絆大使の活動報告(ウズベキスタン)の画像を使用しています。

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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