ファミリーヒストリー 千鳥 ノブの先祖は反毛利元就の武士?再放送とネタバレ

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NHKファミリーヒストリー
「お笑いコンビ千鳥・ノブ
カヤの木に守られて」
(2019年4月22日放送分)では、

岡山県出身のお笑いコンビ千鳥・ノブさん
(本名・早川信行)の家族の歴史が解き明かされました。

その歴史のキーとして語られるのが
ノブさんの実家の前の樹齢450年の
1本のカヤの木で実家のある
井原市芳井町の
早川家一族のご神木で戦国時代から早川家を見守って来ました。

先祖は戦国時代、反・毛利元就の豪族の一員として毛利軍勢と戦っていました。

それが早川家一族の運命を変えました。

またノブさんの父方と母方、双方の祖父とも
太平洋戦争で過酷な戦場を
間一髪で生き残った事実が解き明かされました。

町議会議員になる程の地元の名士である父親は、芸人になることに反対しました。

しかし、父親の知られざる思いに、ノブさんは驚きを隠せませんでした。

※再放送予定4月26日金曜日 (木曜深夜)
午前0時55分~ 午前2時07分

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千鳥ノブさんと早川一族のご神木・カヤの木

千鳥ノブさんは岡山県井原市芳井町
(よしいちょう)に生まれ
父親の名は勝治(まさはる)さん
母の名は千代子さん
です。

千鳥ノブさんの本名は、早川信行で
ノブさんの実家周辺には
早川姓の家が20軒程あり
ノブさんの実家は早川家の本家です。

実家の前には、樹齢450年の
1本のカヤの木があります。

20軒程ある早川家一族のご神木で、
早川家一族の壮絶な歴史と千鳥ノブさんを見守ってきました。

このカヤの根本にはに祠が奉られ
毎年12月に早川家が集まり祭りが行われています。

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千鳥ノブさんの祖先は反毛利家の武士!?

芳井町で昭和4年早川家の歴史が調査され本にまとめられました。

そこには屋号も記載されており
屋号が池ノ内で、家の裏に
池が有ったことが由来と考えられています。

早川家の歴史は、備後相方(さがた)が始まりと記載されていました。

祖先の名前は、八代前の庄十郎さんです。

また、早川家は、戦国時代の永禄元年に芳井町に移り住んだ記録があります。

それ以前、庄十郎さんは、中国地方の一大勢力毛利元就氏の反勢力で豪族の宮氏に仕え、相方城(さがたの城)を守っていました。

相方城は、現在の広島県府中市と芳井町にまたがり築かれたお城です。

しかし、天分21年(1552)志川滝山城の戦い毛利の軍勢に破れ敗走し、備中、現在の芳井町付近に逃れました。

現在のノブさんの実家は坂本地区に有り、
その名の通り実家の裏手には坂道が有り
そこが備後からの一本道となっており
追手の毛利勢が襲ってくる事が考えられていて
ノブさんの先祖庄十郎さんは、
坂の下(麓)見張り、坂本地区を守る役割
を果たしていました。

備後から通じる一本道 ノブさんの実家裏の坂道
備後から通じる一本道
ノブさんの実家裏の坂道

やがて戦のない江戸時代になると祖先は農民となっていました。

早川のカヤの木

早川のカヤ
早川のカヤ

井原市指定文化財 指定 記念物 【指定年2005年】

ノブさんの実家には火縄銃が残されており
鑑別の結果、この銃は寛永~安栄頃に製造で、
銃床に桜の飾り狩猟用と鑑定されました。

冬に狩猟用として使われていた事が考えられました。

そして、銃には製造した
井上間右衛門の署名が掘られていました。

火縄銃江戸時代の鍛冶職人の名簿によると摂州(現在の大阪の北中部と兵庫県南東部)の
幕府の御用職人という事が判りました。

安永6年(1777)にまとめられた火縄銃の登録の文書によると

そこには八代前の先祖、
庄十郎の名前が記録されていました。

芳井町は、1100人前後の大きな村で
銃を持っているのは18人で、限られた家と予想されています。

そして、ノブさんの家が早川本家となり、次々と分家していった事が判りました。

親戚同士を株内(かぶうち)と呼び助け合ってきました。

そして、坂の麓に自生していたカヤの木をご神木
早川のカヤの木」として樹の根本に祠を建てて祀りました。

早川のカヤの祠
早川のカヤの祠

この木に登ったり悪戯をするとバチが当たると伝えられました。

10年ほど前、建設工事で邪魔になる枝を切る事になりました。

太夫(神宮)さんにお祓いしてもらってから切らないと過ちが起きると警告しましたが、建設会社はお祓いをしませでした。

その結果木に登って伐採しようとした建設業者は滑り落ちて怪我をしました。

「そんなの迷信」と言って次に木に登った作業員は、ノコギリで手のひらを切ってしまいました。

高祖父の酒が原因で借金まみれ!

幕末の安政6年に生まれた高祖父・利市
(りいち)さん(四代前の祖先)は
酒に溺れお金を使い果たし代々伝わる田んぼも明け渡しました。

利市さん長男・孟二(たけじ)さんは
本家である早川家を立て直してみせると
農作業に必要な牛の売買を仲立ちする
博労(ばくろう)という職業に就きました。

村民から尊敬される仕事ぶりで借金を完済し、田んぼも取り戻しました。

1932年(昭和7年)祭りで振る舞う天ぷらを揚げていた分家が火事になり、火の粉が本家にも及び燃え、カヤの木にも燃え移りました。

この火事によりカヤの木が枯れてしまったと思われました。

ところが春になると新芽が育ち驚かせました。

この頃、孟二さんの長男で有り、ノブさんの祖父の正(まさし)さんも博労の職を受け継いでいました。

その後、昭和10年(1935)隣村の清子さんと結婚しました。

正さんが31歳の時
昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発し、
昭和3年後の19年(1944)4月
正さんは、34歳で陸軍に入隊する事になりました。

出征前カヤの木の前で手を合わせ
家族の無事を祈りました。

そして、正さんは、歩兵36連隊、通称鯨部隊に配属されました。

高知県出身者が中心の勇猛果敢な部隊で、豹を飼っていた逸話が有ります。

戦後歌手のペギー葉山さんの
「南国土佐を後にして」は
鯨部隊が戦地で謳った歌が元になっていると云われています。

部隊を指揮するのは小柴俊夫大佐(ノーベル賞受賞者物理学者・小柴昌俊さんの父親)でした。

30代の兵は補充兵として扱われ中国大陸を大陸打通作戦と呼ばれる
1000キロを行軍し
桂林市の桂江を目指しました。

そして1944年11月桂林占領しました。

その後、マラリアで正(まさし)さんは生死の境を彷徨いました。

そして病院で終戦を迎えました。

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ノブさんの父親の誕生

21年4月復員すると正(まさし)さんは、再び博労の仕事に就きました。

そして、ノブさんの父親になる勝治(まさはる)さんが誕生しました。

時代は耕運機の時代となり牛で田んぼを耕す事はなくなり

養豚の仕事に就く事になりました。

勝治(まさはる)さんは、地元の高校に進学した後、

織物工場に就職しました。

ノブさんの母親との結婚

7年後、25歳でお見合いでノブさんの母親となる
三宅千代子さんと結婚しました。

三宅家は、高梁市川上町で
積荷を瀬戸内海に送る船「高瀬舟」の
船頭として財を成しました。

「高瀬舟」は川を下った後は、帰りは全長20メートルの船を引っ張らないといけない過酷な仕事でも有りました。

また、家の傍では赤松が樹勢し松茸が良く採れ
広島に売りに行っていました。

三宅家方のノブさんの祖父

三宅家方のノブさんの祖父にあたる昭夫さんは大正11年(1922)に誕生しました。

太平洋戦争で出征中の昭和18年
南太平洋のニューギニア島に派兵される予定でしたが、
射撃訓練中、他の兵による誤射で怪我をしてしまいました。

退院後は補充兵の教育係に就いている内に終戦を迎えました。、

そして昭和20年10月に復員し
昭和21年(1946年)将来ノブさんの母親となる千代子さんが誕生しました。

大人になった千代子さんは
勝治さんとお見合いをし、
昭和47年、お二人とも25歳の時、祝言をあげました。

しかし、早川家の養豚業が苦境にたたされ
昭和51年(1976)勝治さんは転職し
米やプロパンガスを扱う会社に就職しました。

仕事に熱心で、ガスの配送部員として
営業成績トップの成績を記録するまでになりました。

ノブさん誕生

そして昭和54年(1979)三男のノブさん(信行)が誕生しました。

小学校は井原市立芳井小学校に通い、
小学校の卒業文集では、
将来は日テレの社長になるとの夢が書かれていました。
当時の校長先生曰く、
これといったエピソードもない、
クセが薄い小学生だったそうです。

平成7年(1995)高校生になると、隣町の岡山県立
笠岡商業高校に20キロの道を1時間半自転車で通う毎日で、
ここで後の相方となる大悟さんと出会い意気投合しました。

高3で文化祭司会を務めるなどし、卒業後、平成9年(1997)大悟さんはお笑い芸人を目指し大阪の吉本に向かいました。

そしてノブさんは広島県福山市大手電機メーカーSHARPに入社しました。

その後、大悟さんからコンビの誘いが有りました、

勝治さんは猛反対し、大悟の家まで乗り込み
誘った大悟さんに
「何をたぶらかしてくれてんな」
「お前、次会ったときにはホンマぶちこらす(ぶん殴る)ぞ」
厳しく叱られました。

しかしノブさんは
「芸人になるなんてやつが、うちの家から出ることなんて、成功して許さない」
という勝治さんの反対を最終的に押し切り
2000年「ちどり」を結成しました。

当初は芽が出ませんでしたが、地元岡山の自虐ネタで次第にブレイクする様になりました。

そして観光大使となり、岡山県知事ともんげーボーイズ(もんげーは凄いの意味)を結成するなど売れっ子芸人になりました。

父親の本心

父親の勝治さんは専務まで登りつめ平成13年(2001)定年退職しました。

平成14年(2002)町議会議員に出馬し当選。

そして、成福寺の福来い観音大祭結成4年目の千鳥がゲストとして登場し晴れの姿を父親に見せる事が出来ました。

実は勝治さんは千鳥がでデビュー以来、
カヤの木に手を合わせて活躍を願い続けていました。

「できれば成功してくれりゃええがなと。

この木と同じように、細く長くかわいがってもらえれば、それでいい」

と勝治さんは語りました。

ノブさんは御神木のカヤノキを通じて、初めて父親の本心を知りました。

まとめ

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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