車いすバスケ 藤井郁美のプロフィール[乳がん・骨肉腫・潰瘍性大腸炎]を乗り越えたアンビリバボーな奇跡[宮城マックス] 

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2020年の東京オリンピックと開催されるパラリンピックで
活躍が期待されている・車いすバスケットボール藤井郁美選手は
これまで幾度もの病魔と向き合い
諦めない気持ちが起こしたアンビリバボーな奇跡を起こした女性アスリートです。

フジテレビ系列「奇跡体験!アンビリバボー(2019年3月7日放送)」では
【人生は挑戦の連続SP】と題し、
女子車いすバスケットボールチームSCRATCH
男子車いすバスケットボールチーム宮城MAX
の所属選手藤井郁美選手が紹介されます。

藤井郁美選手は、中学3年生で、
右足大腿骨に骨肉腫が見つかり手術は成功したものの
ひざに人工関節を入れることとなり
バスケットを続けることができなくなりました。

2度目の大病は、19歳の時、潰瘍性大腸炎になり、大腸をすべてを摘出
そして、3回目の大病は2017年に、乳がんにより右の乳房を全摘出しました。

藤井郁美選手が幾度も、病魔と向き合い、
諦めない気持ちが起こしたアンビリバボーな奇跡とは!?

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藤井郁美選手プロフィール

藤井 郁美(ふじい いくみ)
車椅子バスケットボール・4.0クラス/
クックパッド株式会社、宮城マックス、スクラッチ所属

藤井郁美選手は、1982年、神奈川県横浜で生まれました。

兄の影響で小学校3年生からミニバスケットを始め、
中学ではバスケットの強豪校に進学し主将としてチームをまとめていた。

また、バスケットボールでの高校進学も決まってました。

しかし、中学3年生の卒業を目前に控えた時期になると、右足大腿骨に骨肉腫が見つかり
ひざ関節と大腿骨の一部を腫瘍と一緒に切除する手術を受け
手術は成功しましたが、ひざに人工関節を入れることとなり、
歩行は可能ですが、走ることは出来ず、
バスケット選手として活動は困難になりました。

入院は1年間に及び、1年遅れで高校に進学すると、
バスケットからは遠ざかっていましたが
中学時代の藤井郁美選手の活躍をよく知る
バスケット部員からマネージャーとして勧誘をうけました。

名目的にはマネージャーでしたが、
実際には指導者として迎えられました。

プレーが出来なくなっても仲間と共に努力する日々を送り、
さらにスポーツトレーナーになりたいという新たな夢も芽生えて行きました。

そんな時、顧問の先生から、車いすバスケットの存在を知らされました。

しかし直感的に
「これは自分ではやらないな」
と思い興味を示しませんでした。

再度病魔に襲われる

19歳の時、再び大病に襲われました。

潰瘍性大腸炎にかかり、大腸をすべてを摘出する手術を受ける事になりました。

20歳になると本格的に車いすバスケットボールとを始めました。

車いすバスケットボールチームに加入

20歳になると、車いすバスケットボールのベテラン選手から
「君なら日本代表だって夢じゃない」と
神奈川県の女子チームに入ることを勧められ、
それまで興味を示さなかった車いすバスケットボールを始めました。

チームは、神奈川県の女子車椅子バスケットボールチーム・ウィングに約5年所属しました。

25歳で宮城に移住と男子選手主体のチーム「宮城MAX」に加入

藤井郁美選手は、車いすバスケットボール日本代表となり、
2006年にオランダアムステルダム世界選手権大会出場し
チームは6位に輝きますが、悔しい思いで
「何か環境を変えないとこの先強くなれない」
と感じながら帰国しました。

当時の日本代表を率いていたのが、宮城MAXの岩佐義明監督でした。

岩佐監督のもとでもっと多くを学んで、男子選手にもまれて力をつけたいと、
宮城に移住を決意し、実行しました。

岩佐監督の指導は、障害があろうがなかろうが、一選手として厳しく健常者と同じ指導をしました。

それが特別扱いされるのが嫌だった藤井郁美選手に合った指導法で、それが楽しいそうです。

とは言え、男子チームでの練習は、体力的にかなりハードなものです。

結婚

藤井郁美選手は2012年2月22日
29歳でチームメートの藤井新悟さんと、結婚しました。

そして、2015年には長男・蒼空(そら)君を出産しました。

リオパラリンピックの予選の代表合宿にも生後10カ月だった
長男・蒼空君を連れて行って、
練習を抜けて授乳~練習という日々を過ごしました。

夫・藤井新悟さんは秋田出身で、藤井郁美選手はは神奈川出身なので、子育を両親に頼れません。

なので、障がいのある二人で競技に打ち込みながら、必死に子育てを頑張っています。

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東日本大震災

2011年、翌年ロンドンのパラリンピック予選の年を迎えました。

3月11日、就業中に大きな揺れに襲われました。

東日本大震災でした。

この時、藤井新悟さんとの生活が始まっていましたが、
自宅はマンションの2階でした。

ライフラインが破壊され、
車いすユーザーの藤井新悟さんはエレベーターが動かなければ外出ができない為
藤井郁美選手が給水所にライフラインが復旧するまで通い続けました。

宮城MAXの岩佐監督の自宅は、津波に流されていました。

幸いな事に、チームメンバーは全員無事でした。

練習場所の体育館は損壊していたり、避難施設として使われており
練習が出来なくなりました。

そんなチームに朗報がもたらされました。

震災から2か月後、山形県の体育館が宮城MAXの練習場所として使えるようになりました。

チームメンバーは全てが被災者で、生活もままならない状況でした。

にも関わらず、チームメンバー達は、
限られた練習時間を惜しむかの如く、
練習に没頭しました。

チームメンバーには、被災したから、ロンドンパラリンピックの出場権を逃した
と思われたくありませんでした。

宮城MAXには男子日本代表選手が多く在籍しており、
練習の甲斐あって、ロンドンパラリンピックの出場権を獲得しました。

そして、翌2012年に開催された日本選手権で宮城MAXは、大会4連覇を達成しました。

3度目の大病

2017年には、乳がんが発覚し、
同年9月に乳房を全摘の手術を行いました。

3度の大病にかかりましたが、家族や友人たちに支えられてきました。

その支えてくれた人達や、仲間の存在がなければ、日本代表という立場に立っていられませんでした。

車いすバスケ 藤井郁美 まとめ

人生で3度の大病を煩わせた
中3で手術した右足の骨肉腫で、右足大腿骨に骨肉腫が見つかり手術成功したものの
ひざに人工関節を入れる事になった
2度目は潰瘍性大腸炎になり、大腸をすべてを摘出
3回目は2017年に、乳がんにより右の乳房を全摘出

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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