アンビリバボー ジム・ジェームズ・ニコルソンは二重スパイ!CIAとロシアKGBの攻防!6月1日

2018年8月30日

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奇跡体験!アンビリバボー(2017年6月1日放送)は、スパイ映画007を凌駕する様なCIAと旧KGBの二重スパイの実録!!
ハロルド・ジェームズ・ニコルソン(ジム・ニコルソン・Harold James Nicholson)は、ロシアに30万ドルで情報を売り渡した件でスパイ行為で逮捕され、有罪となり、実刑を受け23年間収監中、息子ネイサンをスパイに育成し、売国行為を再開!
今回のアンビリバボーにはこの事件の顛末を綴った書籍(再現ドラマの原作)「スパイの血脈」(早川書房)の著者:ブライアン・デンソン氏がインタビューで登場予定です。

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ハロルド・ジェームズ・ニコルソン二重スパイ事件のあらすじ

ハロルド・ジェームズ・ニコルソン(アンビリバボーでは、ニックネームジムニコルソンと紹介される様です)は、アメリカ陸軍の情報部の大尉として勤務した後、1980年、兼ねて憧れていたCIA(中央情報局)に入局しました。

名前の通りジェームズ・ニコルソンは007ジェイムズ・ボンドに憧れてCIAに入局したのでした。

ジェームズ(ジム)・ニコルソンに与えられたミッションは、マルコス政権下のフィリピン・マニラでアキノ氏暗殺に抗議するデモ隊に紛れ込み、反米分子の情報を探る事で、その仕事ぶりを評価され「バットマン」とニックネームが与えられました。

メキメキと頭角を現し、やがて旧ソビエト連邦関連の諜報活動の運営責任者に抜擢されました。

旧ソビエト連邦とのコネクションを作る為、フィリピン、タイなどアジア諸国の支局を転々とし、1987〜1989年には東京にも赴任していました。

そして旧ソビエト連邦と繋がりが深いルーマニアに勤務した後、1994年、マレーシアの首都クアラルンプール駐在時にロシア対外情報庁SVRR旧KGB/КГБ情報部員ユーリー(Юрий)に接触する様になりました。
仕事では、ロシアとのコネクション確立に成功しましたが、その間ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、プライベートでは不在がちな事から家族との絆がズタズタになり離婚闘争に明け暮れ、この離婚闘争が2重スパイへの入り口になるとは本人も思いもしなかった事でしょう・・・。

離婚調停

ジェームズ・ジム・ニコルソンの家族構成は、妻ローラ、長男ジェレミ、長女スター、そして、フィリピン任務中に誕生した末っ子で次男のナザニエル(愛称:ネイサン)と愛犬でした。

諜報活動でいつも帰りが遅く、不在がちでしたが、ジェームズ(ジム)・ニコルソンは子供達を可愛がっていました。

特に末っ子のネイサンは父親が大好きで父親の仕事に憧れていました

しかし、妻ローラは、不在がちな夫に不満を持っていました。

そんな時、ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、愛人を作り、一方のローラは、飼い犬の往診にやってくる若い獣医と不倫し、ダブル不倫が発覚し、1992年7月離婚調停が始まり、親権は妻ローラが持ち多額の養育費がジェームズ・ジム・ニコルソンの肩にのしかかりました。

ロシアSVR(対外情報局)幹部ユーリー・P・ヴラソフとの接触

ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、ロシアとのコネクションを活かし、ロシア SVR(SVRR)ロシア対外情報庁)幹部ユーリー・P・ヴラソフとの接触を試みます。

この時、ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、ある取り引きを心に秘めていました。

ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、きりだしました「2万5000ドル用意出来るか?

ユーリーは即答しました”No problem“・・・「問題ない」と。

取り引きは成立しました。

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スパイ対スパイの攻防戦

同じ頃、CIA本部では、人事部で働いていたジョン・マグワイアJohn Maguire)にあるミッションが与えられていました。

そのミッションとは「CIA内のモグラ=二重スパイを確保せよ」との命令でした!

ジェームズ(ジム)・ニコルソンが、海外出張する度に説明の付かない額の金額が彼の口座に振り込まれており、彼に二重スパイの嫌疑がかけられていたのでした。

ここにスパイ対スパイの攻防戦がCIA局内で繰り広げられるのでした。

CIAの秘密訓練所「ファーム」

ジェームズ(ジム)・ニコルソンの担当は、CIAの秘密訓練所「ファーム」に移動しました。

ジョン・マグワイアはジェームズ(ジム)・ニコルソンの部下となっていました。

ここで事件は大きな転機を迎えます。

実はこの移動はCIAとFBIが仕組んだ移動だったのでした!

ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、泳がされていたのでした!

FBIは密かにニコルソンの机の上に小さな監視カメラを設置し、彼の家に盗聴器を仕掛け、彼のオフィスとミニバンを探し出し、夜と昼に彼を尾行をつけました。

そしてコンピューターにキーボードの入力文字を記録をするキーロガーを仕込み、ジェームズ(ジム)・ニコルソンの職務に無関係なキーワードRussia,Russian(ロシア、ロシア人)」や「chechnya(チェチェン人)」が含まれる事も掌握!

他にも外国の私書箱を宛先とした郵便ハガキなども発見されました。

マグワイア氏は、上司のジェームズ(ジム)・ニコルソンの行動をFBI調査官へのすべての動きを報告していました。

1996年11月16日ダレス空港

遂に満を持して二重スパイ事件解決の時がやってきました。

ジェームズ(ジム)・ニコルソンが部下の一部と公式のCIAビジネスで海外に出張する日が1996年11月16日に決定しました。

この出張後、彼の同僚と離れてスイスで休暇を取るスケジュールを組んでいる事がマグワイア氏により報告されました。

ジェームズ(ジム)・ニコルソンは、スイスでロシアのエージェントと合流する計画だったのでした!

そして、ダレス空港で待ち受けたFBIにより身柄を拘束されました。

そして、ノートパソコンやFDが押収され、調査の結果、ロシアに駐留する米国諜報部員の身元とCIAの秘密訓練所「ファーム」訓練生名簿、チェチェンでのCIA秘密活動に関する情報などをSVR(SVRR)(ロシア対外情報庁)に売った事が立証されました。

ジェームズ(ジム)・ニコルソンが、二重スパイ事件に走った理由と下された判決

ジェームズ(ジム)・ニコルソンには愛する子供たちが3人居ました。

しかし、離婚調停の結果、彼は親権を失い、子供たちは元妻・ローラに引き取られ多額の養育費や学費のローンの返済が必要でした。

国家機密情報を売る事で、ローラへの慰謝料や養育費を確保し、子供たちを自分の元に取り戻せる・・・

それが二重スパイに走った動機でした・・・。

そして裁判の結果は、23年7か月の実刑判決で刑務所を転々とし、最終的にオレゴン州シェリダン刑務所に投獄されました。

アメリカのABCニュースによるとロシアから受け取った賄賂は総額30万ドルに及んでいました。

二重スパイ事件は、これで終わりでは無かった!

しかし、これで終わりでは無くジェームズ(ジム)・ニコルソンによる二重スパイ事件は、序章に過ぎませんでした!

しかも刑務所内で殺人事件が起きるなど、ならず者達が多く収監されるシェリダン刑務所を舞台に新たなスパイ事件が起きようとは!!

この話には続きが有ります。

続編のネイサン・ニコルソンは親子でロシアの二重スパイ!の投稿は、コチラをお読み下さい。

ネイサン・ニコルソンは親子でロシアの二重スパイ!を読む

書籍・原作:スパイの血脈

今回の奇跡体験!アンビリバボーはニコルソン父子二重スパイ事件を綴った書籍「スパイの血脈」(早川書房)の著者:ブライアン・デンソン氏や捜査関係者へのインタビューが放送される予定です。

編集上カットも有りえます。
もっとニコルソン父子2重スパイ事件の内容の詳細(特にこのブログで紹介しきれなかった証拠や犯行内容など)や結末を詳しく知りたい方は「スパイの血脈」をご覧下さい。

まとめ

ジェームズ・ニコルソンは旧ソビエト連邦関連の諜報活動の運営責任者としてCIAで活躍していた

マレーシアの首都クアラルンプール駐在時にロシア対外情報庁(旧KGB)諜報員ユーリー・P・ヴラソフと出会った

ジェームズ・ニコルソンが海外出張する度に説明の付かない額の金額が彼の口座に振り込まれており、彼に二重スパイの嫌疑がかけられていた
CIA本部では、人事部で働いていたジョン・マグワイアに二重スパイの確保のミッションが下った

ジェームズ・ニコルソンのCIAの秘密訓練所「ファーム」への移動はCIAとFBIに仕組まれたオトリだった

FBIは密かにニコルソンの机の上に小さな監視カメラを設置や彼の家に盗聴器を仕掛けるなど内偵調査していた

スイスでロシアのエージェントと合流する計画を突き止め、1996年11月16日ダレス空港で待ち受けたFBIにより身柄を拘束された

漏洩した内容

ロシアに駐留する米国諜報部員の身元

CIAの秘密訓練所「ファーム」訓練生名簿

チェチェンでのCIA秘密活動に関する情報(実はオトリ情報だった)など

そして、二重スパイ事件は未だ終わりではありませんでした。

この話には続きが有ります。

続編のネイサン・ニコルソンは親子でロシアの二重スパイ!の投稿は、コチラをお読み下さい。

ネイサン・ニコルソンは親子でロシアの二重スパイ!を読む

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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