ヒストリア 後醍醐天皇の政治は秘仏や秘宝で?見逃し動画配信 島流しから吉野へ 再放送9月16日
歴史秘話ヒストリア(2017年9月8日放送)は、「謎の秘宝で日本を変えよ!~不屈の天皇 ミステリアス紀行」と題し、後醍醐天皇の島流し後、自ら兵を挙げ、鎌倉幕府を打ち倒した不屈の魂を支えた、神秘に満ちた「秘仏」や「秘宝」を訪ねるミステリアスな旅が紹介されます。
歴史秘話ヒストリアの再放送日は、9月16日深夜0:05(関東)ですが見逃した方やその他地方の方は、[U-NEXT]の見逃し配信で視聴してみては如何でしょうか?
謎の秘宝で日本を変えよ!~不屈の天皇 ミステリアス紀行の見どころ
後醍醐天皇は、天皇として自ら兵を挙げ、鎌倉幕府を打ち倒しました。
鎌倉幕府を倒すための計画が察知され島根県の壱岐島に島流しに合うも数々の「秘仏」や「秘宝」を頼りにし、倒幕に成功しました。
今回のヒストリアは、後醍醐天皇と秘仏をめぐるミステリアスな力の源の旅が見どころです。
後醍醐天皇が心の拠り所にしたのは・・・
・巨大な磨崖仏「弥勒磨崖仏」
・島根県壱岐市に伝わる「愛染明王の像」
・奈良県吉野の里に伝わる「金剛蔵王権現木像」
でした。
「謎の秘宝で日本を変えよ!~不屈の天皇 ミステリアス紀行」再放送
9月17日(日)※9月16日土曜深夜 00:05~00:48
※中部地方・・・9月13日(水)22:25~23:08
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後醍醐天皇と空海の秘宝
京都の醍醐寺に御遺告(ごゆいごう)と呼ばれる空海の遺言が有ります。
この御遺告を読み、他の者に見せてはならぬと言い残したのが後醍醐天皇です。
そこには空海の秘宝・如意宝珠(にょいほうしゅ)の作り方が記されていたからです。
如意宝珠とは、どんな願いもかなえる秘宝と云われています。
鎌倉幕府の時代、武士が政治の主役になっていました。
1313年(文保2年)後醍醐天皇31歳で即位しました。
後醍醐天皇は民の訴えを熱心に聴く天皇でした。
次第に発言力を増す後醍醐天皇を鎌倉幕府は疎ましく思っていました。
後醍醐天皇を警戒した鎌倉幕府は、武力を背景に朝廷に圧力をかけました。
その後、鎌倉幕府は後醍醐天皇の側近を島流しにしました。
後醍醐天皇は強大な幕府に立ち向かう方法を探り始めました。
そこで、弘法大師・空海の力にすがろうと決心しました。
空海は、密教を日本にもたらし高野山に密教の道場を立てました。
京都府東山区の来迎院には、空海の使った独鈷杵(とっこしょ)が伝わっています。
独鈷杵で土を掘るとたちまち水が湧き出し井戸になりました。
他にも空海の不思議な力が伝わる場所が全国に1500箇所も有ります。
後醍醐天皇は、そんな空海の不思議な力を手に入れたいと考えたのでした。
如意宝珠とは、どんな願いもかなえる玉の事です。
仏舎利三十二粒などで作るとされれる「如意宝珠」を使って、将軍を破り鎌倉幕府の倒幕「将軍破敵」を祈祷しました。
鎌倉幕府を倒す力を授けてくれる本尊として「如意宝珠」を作ったと云われています。
京都府京都市伏見区にある醍醐寺・法恩院では仏法に従わないものを力ずくで諌める不動明王を本尊としています。
後醍醐天皇は自ら密教の祈りの儀式「護摩(ごま)」の祈祷を行いました。
後醍醐天皇は信仰する空海持ち帰った衣「金剛杵(こんごうしょ)」をまとう事により空海の全てを引き継ぎ、強い力を得ようとしていました。
「如意宝珠」に「不動明王」と「愛染明王」を加えて祈ると大変力がでるとされていたからです。
しかし、幕府に倒幕の祈祷がもれ、腹心の文官を島流しにされました。
元徳3年(1331年)8月24日後醍醐天皇44歳の時、鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題に察知され軍勢が御所に押し寄せ、都からの脱出を決意し、京都と奈良の境に位置する笠置寺に楠木正成らと立てこもり幕府と対決する事になりました。
笠置寺縁起絵巻には怪力の僧が攻め寄せる幕府軍に大きな石を落とし奮戦する様子が描かれています。
しかし多勢に無勢で、後醍醐天皇の味方は3000なのに対し鎌倉幕府軍は80000とも言われる大軍勢であった。
笠置寺は、激しい炎で焼かれ、本尊・弥勒仏が描かれた大きな岩「弥勒磨崖仏」は光背のみが残されました。
後醍醐天皇は幕府軍に囚われ幽閉され隠岐諸島に島流しにされる事になりました。
愛染明王と復活の旅
後醍醐天皇は帝の地位を解かれ、島根県の沖合およそ50キロに浮かぶ隠岐諸島に島流しされる事になり、400キロの旅に・・・。
隠岐諸島の木村ヤヨさんの自宅には、後醍醐天皇鍾愛の品が大切に保存されています。
それは、後醍醐天皇が、肌身離さず持ち歩けるよう作られた、小さな「愛染明王の像」です。
隠岐に伝わる愛染明王の像には、後醍醐天皇の挫折と復活の物語がありました。
後醍醐天皇は、黒木御所で厳しい監視のもと祈祷を続けながら8ヶ月後事態が急変しました。
吉野に残した後醍醐天皇の王子が挙兵、それに呼応する様に鎌倉幕府に不満があるものが戦いを始めました。
そして隠岐でも後醍醐天皇を監視していた武士のなかから謀反が起こりました。
元弘3年(1333年)後醍醐天皇46歳の時、隠岐脱出を実行しました。
しかし、深夜だった為、道に迷い民家を訪ねた所、島民が後醍醐天皇をおぶって港に連れて行きました。
後醍醐天皇はお礼に、肌身離さず持ち歩けるよう作られた、小さな愛染明王の像をその島民に授けました。
その愛染明王の像こそが、木村ヤヨさんの自宅で保存されている物で、木村さんの先祖こそが後醍醐天皇をおぶって港に連れて行った島民だったのでした!
鳥取県の船上山で王子達と合流して更に楠木正成も加わり挙兵し、元弘の乱(げんこうのらん)が起こりました。
金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させましたが、人名越高家が京を出て直ぐに戦死し仮病を使うなど出陣に消極的だった足利尊氏が謀反を起こしました。
正義の兵を挙げる
これにより形勢は逆転し討幕運動が広がり、1333年5月22日、遂に後醍醐天皇の祈祷が叶い150年近く続いた鎌倉幕府は滅亡したのでした。
島流しから400日、後醍醐天皇の願いが叶った瞬間でした。
帰りたいのに帰れない
日本有数の桜の名所である、奈良・吉野には、後醍醐天皇が桜をながめ詠んだ歌があります
その意味は、都に帰りたいのに帰れない・・・との意でした。
1333年6月建武の新政が行われ、天皇が公家と武家を治める政を行いました。
雑訴決断所と呼ばれる武士の土地の公認や訴訟などの解決を行う制度が始まりました。
しかし、武士の訴えが予想以上となり新政権に不満を持つ者が増えて行きました。
そこに幕府の残党が決起し、反乱が起こり始め、僅か2年で新政権は危機に晒されました。
苦難に直面した後醍醐天皇は、今度は聖徳太子にすがりました。
聖徳太子が建立した四天王寺に聖徳太子が記した「四天王寺縁起」が有り、後醍醐天皇が「四天王寺縁起」を写生し手形を押しました。
しかし、状況は変わらず、足利尊氏との関係も悪化し、争いが起こり後醍醐天皇は敗北しました。
足利尊氏は、新たな帝を立て、室町幕府を開きました。
1336年12月49歳の時、吉野に逃れ朝廷を開きました。
後醍醐天皇が如意輪寺に伝わる金剛蔵王権現木像は、怒りの容貌が表されています。
後醍醐天皇は、金剛蔵王権現木像を念持仏としていつもお祈りしていました。
金剛蔵王権現木像に京に戻る事を祈り続けていました。
しかし後醍醐天皇は、吉野に移った3年後病に倒れました。
後醍醐天皇最期の様子を描いた「太平記絵巻」に、右手に剣、左手にお経を持つ姿が描かれています。
後醍醐天皇は、1339年8月16日、52歳崩御しました。
高野山別格本山明王院には、空海の高僧が血を混ぜて描いたとされる毎年4月28に開帳される重要文化財・不動明王二童子像(通称・赤不動)が有りますが、これは後醍醐天皇が吉野に持参し、熱く信奉していて死後高野山に移されたとい云われています。
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まとめ
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本日は最後までご覧頂き有難うございました。
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