歴史秘話ヒストリア 宝永富士山大噴火 復興にかけた代官伊奈忠順と田中丘隅 見逃し動画配信
歴史秘話ヒストリア(2017年9月9日再放送)は、「防災の日スペシャル 江戸百万人が見た!富士山大噴火」と題し、江戸時代中期の宝永4年に起きた「宝永大噴火」と呼ばれる富士山の大噴火に関し、当時の人々が記録したリアルな文章や絵から巨大噴火の実像に迫るとともに、80年に及んだ知られざる復興への歩みが放送されます。
歴史秘話ヒストリアの再放送日は、9月9日深夜0:05(関東)ですが見逃した方やその他地方の方は、[U-NEXT]の見逃し配信で視聴してみては如何でしょうか?
宝永大噴火(ほうえいだいふんか)
宝永大噴火は、今から約300年前の江戸時代中期1707年(宝永4年)11月23日に起きた、史上最大級の富士山大噴火です。
当時の人々は噴火の1ヶ月前から富士山の異常を文章で記録し、噴火時には文章のみならず、絵で記録していました。
標高およそ2500メートルの巨大噴火の痕跡「宝永火口」が現在も残っています。
そして山中には、火山弾と呼ばれるマグマが火口から噴き上がり空中で固まった岩が残っています。
火山灰により田畑は荒廃し、川は大洪水を起こし流域の村も崩壊するなど被害は甚大で、その復興に要した時間は80年にも及びました。
その時、一体何が?百万人が見た巨大噴火
富士山噴火の1ヶ月前の1707年(宝永4年)10月、御師(おし)であり富士登山の案内人の御師土屋伊太夫が噴火前の異変を記録していました。
富士山頂から東南15キロの自宅周辺では、毎日強い地震が有り、1日多い日は10回から20回地震が起きていました。
しかし里では地震は感じられなかったと記録しています。
その理由は
・マグマが地表付近に上がってきて地殻を割り始めた
・・・と静岡大学防災統合センター副センター長(火山学)小山真人さんは考察します。
つまり伊太夫が感じた揺れは噴火が近づく予兆だった、と考えられます。
1707年(宝永4年)11月23日午前10時頃、富士山の噴火、所謂「宝永大噴火(ほうえいだいふんか)」が起こりました。
そして、大きいものは蹴鞠ほどの石砂が降って来ました。
地に落ちては破裂し、火炎を出し、草木や家を焼いていきました。
僧侶の富東一禿は、昼なのに真っ暗で外を見ると、黒雲が広がり百千万の雷鳴が鳴っていたとという異様な現象を記録していました。
百千万の雷鳴は、火山灰などがぶつかり合い電気を帯びて生じる火山雷という雷でした。
人々は鍋やすり鉢をヘルメット代わりに被って逃げ回りました。
沼津では富士山宝永噴火絵図が描かました。
江戸では、次期将軍の妻、後の天英院煕子は、江戸城の戸や障子が揺れているのに地表が揺れていないと言う、爆発的な現象が空気中で起きると空気の振動として遠くまで伝わる空振も記録されています。
西南から地響きが伝わり、大量の火山灰を含んだ真っ黒い光を通さない雲も江戸まで到達し江戸までもが暗闇が覆われました。
旗本の伊東佑賢は降灰を記録していました。
火山灰は二三分(6ミリから9ミリ)積もったと記録しています。
そして半月で噴火は収まりました。
噴火時に人的被害は少なく済みましたが、80年もの間、庶民を苦しめる事になりました・・・。
恐るべき火山灰 見放された村と伝説の代官
御厨(みくりや)と呼ばれた現在の静岡県小山町の地域では2メートルにもお及ぶ火山灰が溜まってしまい畑作は壊滅的な打撃を受けました。
火山灰は無機質で、数センチ積もるだけで田畑も壊滅し畑作は出来なくなった為です。
農民は小田原藩に救済を嘆願しましたが役人は「百姓は自力でなんとかせよ!」という冷たい対応でした。
第五代将軍・徳川綱吉は全国の藩から石高百石につき二両の援助金を集め50万両(現在の300億円)の資金が集まりました。
しかし、16万両が復興に充てられただけで、江戸城内北の御所の御殿の定軍側室の為の屋敷造営に流用されてしまいました。
1709年(宝永6年)1月綱吉が死去し、被災地への援助は打ち切られました。
農民立ちかえらの嘆願を受けた関東代官・伊奈忠順(いなただのぶ)は、1709年(宝永6年)6月視察を行い飢えに苦しむ農民の悲惨な有様を目の当たりにしました。
伊奈忠順は、幕府への義憤から村の名主達を江戸に招き幕府の有力者に惨状を訴えさせると言う前代未聞の行動に出ました。
そして農民達と幕府の財政を握る勘定奉行の元に向かいました。
その結果、復興の為の火山灰撤去の費用である「砂除金」が捻出されました。
これで復興の道筋が立ちました。
小山町には「天地返し」と呼ばれる縞模様の畑跡の土地が残っています。
火山灰を元の地面の下まで掘って溝を作り、その中に火山灰を埋め、更に隣にも同じように地面を掘り溝を作り火山灰を埋めて行きました。
その後伊奈忠順は、飢えに苦しむ農民をみかね、独断で米蔵を開き、農民に振る舞い、責任をとり切腹しました。
現在、静岡県小山町の「吉久保水神社」には、忠順の偉業を伝える石碑と忠順をまつる祠(ほこら)が建てられています。
終わらぬ苦闘 三次災害「大洪水」
足柄平野の酒匂川では、上流から運ばれた火山灰のたい積で河川の水位が上昇し「洪水」の危険に晒されました。
1708年(宝永5年)から洪水が頻発しました。
幕府としても放って置くわけには行きません。
穀倉地帯というだけでなく東海道の要所でもあったからです。
治水工事が行われるも幕府と商人の癒着により横領がまかり通り、工事は手抜き工事が横行し、堤防を直して決壊するという状況が15年も続きました。
東海道沿いの名主である田中丘隅(たなかきゅうぐ)は、横行する横領を幕府に訴えた結果、時の将軍・徳川吉宗の目に止まり民間から工事の責任者に起用されました。
丘隅は、1726年(亨保11年)足柄平野に赴き、悪徳商人の排除として公正な入札制度を導入し、地元に詳しい小田原の業者が工事を請け負う事になりました。
南足柄の大口土手は僅か4ヶ月で完成しました。
それだけで無く、弁慶枠と呼ばれる高さ2メートル一片の長さ4メートルの木枠に石を詰め川の中に埋め、川の流れを分散させ土手にかかる力を弱める画期的な方法で治水に成功しました。
堤防の維持管理の問題が発生しましたが、水位が増した時は。川に近い村は人を出し、川から遠い村は石を集めておくと言う村それぞれの役割を決め負担の伊公平化を行いました。
それに加え、毎年春には流域の村民をい集め祭りを行い交流を深めていきました。
祭りの費用は将軍吉宗が100両を拠出したそうです!
祭りにも秘策が有り、参加者は石を持ち込む事が条件でした!
これは堤防を修復する為に使われ、その習慣は昭和まで続いたそうです!
酒匂川周辺にいくつも有る地蔵の一つ岩流瀬地蔵は人を呼び、自然に防災に目を向けるようの秘策の一つです。
酒匂川の治水が完了したのは、噴火から80年後でした。
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まとめ
噴火から300年立ちますがマグマは未だに活動しており、地下深くでは地震が起き続けておりいつ噴火が起きてもおかしくありません。
伊奈忠順や田中丘隅など先人の復興作業は、大切な道標として記憶して起きたいです。
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本日は最後までご覧いただきありがとうございました。
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