アンビリバボー 八宝亭/築地中華料理店 一家殺人の事件は謎だけ残った 7月20日

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奇跡体験!アンビリバボー(2017年7月20日放送)は、中華料理店「八宝亭」の家族4人が殺害され貯金通帳が盗まれたものの現金の引き下ろしに失敗し共犯の住み込み女性の供述で同じ住み込みの見習いが逮捕され翌日服毒自殺で幕を閉じた「築地八宝亭一家殺人事件」と、第二次世界大戦が終結して60年後、ヨーロッパ戦線で行方不明になった夫の米軍パイロットが、墜落した村を命を賭して守り60年もの間、英雄として祀られている事を知った戦争未亡人の奇跡のストーリーが紹介されます。
※この投稿の事件の犯人はすべて仮名です。

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築地八宝亭一家殺人事件

1951年2月22日、東京都中央区築地中華料理店「八宝亭」の夫婦と二人子供の一家4人が何者かに惨殺され、家からは現金4万円(現在の貨幣価値でおよそ280000円程)と残高14万円(現在の貨幣価値でおよそ98万円程)あまりの預金通帳、女物の腕時計、財布が盗まれる凄惨な事件が発生しました。

(アンビリバボーでは現在の貨幣価値で被害総額は、800万円程と紹介されました)

犯人は、その後、銀行を訪れ現金を引き出そうとしましたが、印鑑が違う事で引き出しを拒否され逃亡しました。

第一発見者は、二ヶ月ほど前から「八宝亭」二階で住み込みで見習いとして暮らしていた中村(仮名)。

中村の証言によると、事件の前日から店に住み込みで1階の3畳間に泊まり込働き始めた太田成子(なりこ)という女が事前夜、親戚と名乗る男となにやら会話をしており、しかも朝には二人共姿を消していました。

捜査は逃げた男女と、第一発見者である中村、この両面から進められましたが、中村は捜査に協力的で、マスコミにも積極的に対応し、且つ、ひょうきん者で捜査に当たった刑事とも気心をしれた仲で、中村はシロと思われていました。

雇われていた中国人料理人も「太田」という名前と容姿を覚えており、容疑者は「太田」で捜査が進みました。

しかし中村に関して、疑わしい点も浮かび上がっていました。

・太田成子の姿は前日、中国人料理人や周囲の人たちや客に確認されていたが、親戚の男の姿を見たものが中村以外に居ない
・中村は、親戚の男の服装を見たものの顔を見ていないと主張
・犯人が太田成子と親戚の男ならば、2階に中村が住んでいる事を知っている筈なのに何故中村に手を出さなかったのか
・中村は、2階で寝ていながら騒動に何故気づかなかったのか?
→この件に関して中村は、争う男女の声が聞こえたが太田成子と親戚の男が言い争っているんだろうと思って関与を避けて寝たと供述

・マスコミの記者とすき焼きを囲んでの懇談中、太田成子を「なりこ」と呼んでいたが「しげこ」が正しいのでは無いかと問われ狼狽していた
→この件に関して中村のひょうきんな振る舞いから漢字を読み間違えていたのだろうと深く突っ込まれる事はなかった

この件を知った中村は「お世話になった店主を殺めた犯人を逮捕して欲しくて捜査に協力しているのに自分に疑いがかけられるくらいなら死んだほうがマシだ!」と大声で泣きじゃくり、捜査を担当したベテラン刑事も嘘や演技であんなに泣けるもんじゃない・・・と疑わず、新聞記者もあんなに素直な人が犯人な訳が無いと口を揃えて発するほどでした。

実際、プライベートでも店主の生前の二人の子供と仲良く遊ぶ姿が近所では話題になっており本当の家族の様に周りの人からも感じられていて中村を疑う者はいませんでした。

中村の証言からモンタージュ写真が作成され、3月6日付けの「朝日新聞」には「私の推理」と題されたなる中村の手記が掲載され、事件発生から17日後の3月10日、太田成子が都内の建築飯場で身柄を拘束されました。

証言

逮捕された太田成子は、中村が真犯人であると証言しました。

その内容は・・・

・洋裁の学校に通う学費を稼ぐ為、伊豆の実家から状況しホテルの従業員として働いていたが安月給の為、新宿で娼婦になった。
・そこで知り合った中村に身の上話をしたら住み込みの女中を「八宝亭」で募集しているから紹介する
・「洋裁学校にも通わせてもらえる」などど持ちかけられ21日に面接に行き即採用になった
・夜中に大きな音がして目が覚めたら中村に現金千円と信用金庫の通帳と印鑑を渡され、朝9時に銀行で14万円下ろす様云われ新宿待つよう指示があった
・「この事は口外するな」・・・と中村に云われた

と素直に証言しました。

そして、「太田成子」は、中村が適当に作った別な名前であり本名では無い事と、現金千円(現在の7千円程)に目がくらみ怪しいと感じながらも協力した・・・とも語りました。

真相は藪の中

太田成子の証言により、同日午後5時過ぎに中村は、素直に犯行を認め逮捕され、連行される際に「疲れているから、明日、全て話します。」と言い残し、留置場で、隠し持っていた青酸化合物を飲み、服毒自殺した事により事件は唐突に終焉しました・・・。

共犯者太田成子のその後

太田成子は、強盗殺人の共犯としては不起訴で、当時の臓物運搬罪(現在の盗品等関与罪)で起訴され、懲役1年、罰金2000円執行猶予3年を言い渡され、刑を終えた後は伊豆に戻り結婚し、平穏な人生を送ったという。

まとめ

犯人の自殺で幕を閉じた事件ですが、数々の不明点が残っています。

残された疑問は何故犯行に及んだか?です。

・実家は裕福な農家で、仕送りで生活出来るのでお店から給料は要らないと断っていましたが、お店の主人はお小遣いとして月2000円(現在の貨幣価値でおよそ14000円程)を受けとってた

・太田成子が逮捕されれば自白で、芋づる式に中村が逮捕される事は明白であまりにもズサンな計画

・中村は、出身地の茨城県の◯◯村の次の村長と期待されて村の役場に勤めていましたが、配給品の横流しの疑いをかけられ、1950年12月25日に東京高裁で懲役1年半、執行猶予5年を判決を受けたが、物資がなく困窮している村人の為に品物を横流ししたのであって、罪を1人被ったと逆に村民に尊敬されるほど人望が熱かった

・・・など腑に落ちない点がいくつも有ります。

同じ放送日に紹介される、第二次世界大戦が終結して60年後、ヨーロッパ戦線で行方不明になった夫の米軍パイロットが、墜落した村を命を賭して守り60年もの間、英雄として祀られている事を知った戦争未亡人の奇跡のストーリーについては別ページに投稿しています。

コチラも併せてご覧ください。

※お金の換算については日本銀行公表資料・広報活動教えて!にちぎんを利用しています

本日は最後までご覧頂き有難うございました。

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