アンビリバボー 茅原 基治(かやはら もとじ)船長/陽明丸(ヨーメーマル)と800人のロシア難民の子供の子孫オルガ・モルキナの奇跡!11月30日

2018年10月8日

スポンサーリンク

奇跡体験!アンビリバボー(2017年11月30日放送)では、1920年茅原 基治(かやはら もとじ)船長の「陽明丸」がロシア革命で難民となった800人のロシア・ペトログラード(現・サンクトペテルブルク)の子供たちを極東ウラジオストク~北海道・室蘭~パナマ運河~フランス~フィンランドへの大航海の後、故郷のペトログラードへの帰還を成功させ、その子孫のロシア人女性オルガ・モルキナさんが100年近く経った今から6年前の2011年茅原船長の墓前で感謝を伝えた100年間、誰からも称賛されず歴史に埋もれていた日本人たちによる壮大な救出劇の奇跡が紹介されます。

スポンサーリンク

ロシアの800人の子供達が難民に!

現在ロシアのモスクワに続く第2の都市・サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は、第一次世界大戦開戦以降(1914~1924年)までペトログラード(Петроград)と呼ばれていました。

地理的にフィンランドも近くロシア皇帝ニコライ2世は「フィンランドの自治権廃止宣言」まで行い公用語をロシア語にさせるなど歴史的も繋がりがあります。

第一次世界大戦が終わり、今から丁度100年前の1817年の2月革命でニコライ2世が退位、10月革命でレーニンが率いるボリシェビキが台頭した所謂ロシア革命が起こりソビエト連邦社会主義共和国の成立しました。

その後もソ連では混乱が続き、1918年ペトログラードでも革命により治安が悪化、申告な食糧不足に陥っていました。

その為、ペトログラードでは、800人の子供たちを遠く離れたロシアを南北に縦断する山脈のあるウラル地方へ疎開させました。

しかし、戦火は避難したウラル地方まで迫り、アメリカ赤十字赤十字は難民となった800人の子供達を保護し更に遠く離れた極東のウラジオストクの施設に子供たちを移送しました。

更に、800人の子供の救出計画として、ロシアを離れ、故郷のペトログラードに近い安全なヨーロッパへ海路で移送する計画を立てました。

そして、ロシアの混乱が落ち着いた頃に、800人の子供達をペトログラードの親元に返す・・・という筋書きでした。

しかし、社会主義国の子供という事が計画通りに行かない理由となっていました・・・。

800人のロシアの子ども達の輸送計画

1920年5月にアメリカ赤十字より関係各国の船舶会社や日本政府宛にウラジオストクで難民となっている800人のロシアの子どもを親元に帰すために輸送の協力をして欲しいとの依頼がありました。

海軍にも話が回ってきましたが軍部はできる限りの便宜を図ると返答しただけで、当時はシベリアから撤退が始まった時期であったため、具体的行動には出ていなかった事が後に防衛省防衛研究所の資料で判明しています。

十数年前まで戦争をしていた日本軍は勿論の事、世界中のどの国の会社も子供たちの移送を引き受けてはくれませんでした。

アメリカ、イギリス、フランスなど資本主義の国は、ロシア革命により誕生した会主義を掲げるロシアに脅威を感じていたからに他ありません。

スポンサードリンク



貿易会社「勝田商会」と貨物船「陽明丸」

そんな中、神戸の海運業も手がける貿易会社「勝田商会」が名乗りを挙げました。

社長の名は、勝田銀次郎(かつだぎんじろう)。

所謂、船成金でしたが、儲けるだけではなく、広く社会奉仕も行なっている人物でした。

そこで貨物船「陽明丸」が提供される事となりましたが、貨物船の為、客船に改装する必要が出てきました。

勝田銀次郎氏は私財を投げすて多額の改造費(現在の通貨価値で数千万円)に当て、1年かかると言われた客船への改装を僅か1ヶ月で完了させました。

こうして船は完成しましたが、問題は航海を指揮する船長です・・・。

茅原 基治(かやはら もとじ)

陽明丸の航海の為、船長を決める必要が有り、勝田銀次郎氏は様々な船乗りに声をかけましたが、日露戦争が集結して間もない事から”ロシア人の子供800人”という理由で拒否反応を示され、それだけでなく、航路には第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷が多く残っており危険ががはらみます。

そんな中で伝説の船長として名を馳せた「茅原 基治(かやはら もとじ)」が名乗りを上げました。

1920年7月13日「陽明丸」は神戸を出発し、子供達の待つ極東ウラジオストクに到着し子供たちを乗船させ出港しました。

しかし、茅原船長に向けられたのは子供たちの戸惑いの表情でした。

それはほんの数年前までは敵国であった日本から来た船長や船員に、どう接すれば良いのか分からなかったからでした。

そこで茅原船長は、ロシアの子供たちと信頼関係を築く為、日本に立ち寄り日本の事を知って貰おうと考えました。

しかし、日露戦争の傷跡は深く、ロシアの子供たちに日本への上陸許可は下りそうにありませんでした。

そこで、7月15日北海道室蘭に寄航し、全ての責任を自らが取るという条件の元でロシアの子供達の日本上陸許可がでました。

茅原船長は役所にお願いし、ロシアの子供たちと日本の子供が触れ合う機会を設けてもらい室蘭にある小学校に向かいました。

言葉は通じなくても子供同士は、仲良くなるのにそう時間は必要ありませんでした。

日本人の温かさに触れロシアの子供達も日本人に対する偏見も無くなり茅原船長や乗組員との溝は無くなって行きました。

陽明丸は室蘭を出港し、太平洋経路で、サンフランシスコ、パナマ運河、ニューヨーク、フランス・ブレストなどを経由し、フィンランドへの2万5キロ以上に渡る大航海が始まりました。

船内では茅原船長と子供達は家族の様になり、茅原船長の奏でるハーモニカに、子供たちも合わせて踊りったりと楽しい時間を過ごしていました。

茅原船長いつしか日本語で「ニイサン」呼ばれる様になっていました。

それだけでなく、多くの子供たちが慣れない赤道直下の太平洋の暑さのせいで日射病で倒れてしまいましが茅原船長は子供たちを徹夜で看病し支え、看病のかいもあり子供たちの病状は快方へ向かったそうです。

航海から3ヶ月経った10月10日、いよいよ目的の地、フィンランド近くにまで到着しました。

しかし、この海域には第一次世界大戦中に海に仕掛けられた機雷が数多く残っており、危険ですが機雷が浮かぶ危険海域を通過し、遂にフィンランドに到着しました。

そして、子供たちはフィンランドから無事に故郷ペトログラードへ戻り親との再会を果たしました。

15歳の少女オルガとと少年ユーリ

その子供の中に、ともに15歳のオルガという少女とユーリという少年がいました。

船内で二人は恋におち、20歳でめでたく結婚し、一人娘を授かりましたが、今度は第二次世界大戦が二人の中を引き裂きました。

娘は父親ユーリに引き取られる事になりました。

ユーリさんは一人娘に事あるごとに妻と出会った「ヨーメーマル」の話をおとぎ話の様に話していました。

そしてその「ヨーメーマルの」話は一人娘が成長し産んだオルガ・モルキナさんにも語り継がれ「ヨーメーマル」についての奇跡が起こるのでした・・・。

モルキナさんの祖父と祖母

2009年9月、書家・篆刻家(てんこくか)・北室南苑(本名北村正枝)さんが、ロシアのサンクトペテルブルグで個展「篆刻アート展」を開催しました。

その個展に、オルガ・モルキナと名乗る女性(英語教師、フリージャーナリスト)が話しかけてきました。

その話の内容は、「ヨーメーマル」という船で船長の名前が「カヤハラ」で、「ヨーメーマル」により自分の祖父・祖母を含む800人の子供達が救われた事をまとめ、書籍を出版した。

90年前に祖父母を救ってくれた日本人船長「カヤハラ」のその後の消息についての探索を是非お願いしたい。

と「カヤハラ」船長の捜索の依頼でした。

幼いころ、母親から祖父母を救った「ヨーメーマル」という船の名前と「カヤハラ」船長の名前の日本語の不思議な響きが記憶の中に残っていたのでした。

北室南苑さんは、石川県金沢市の自宅に戻ると調査を開始し、船の名は「陽明丸」で、所有は神戸に本社を置く現在の川崎汽船グループの「太洋日本汽船株式会社」と判明し、中西眞誠常務が調査に協力し神戸や東京など各地で調査しました。

そしてオルガ・モルキナさんの調査依頼から2年経った2011年7月、船長が岡山県笠岡市の出身の茅原 基治(かやはら もとじ)さんと判明しました!

それだけなく、茅原基治さんのお墓が岡山県笠岡市にあり、遠縁にあたる茅原好子さんがを管理している事も判明しました。

同じ頃、北室南苑さんの活動を知った名古屋市の「南山高校」の生徒が、在日ロシア大使館に、オルガ・モルキナさんに授業の一環として日本に招請する事を相談した結果ロシア大使館はオルガ・モルキナさんを探しだし来日が決定しました。

そして、2011年10月27日、遂にオルガ・モルキナさんが来日し、南山高等・中学高男子部の生徒ら1200人の前で講演し、北室南苑さんと再会し感謝の気持ちを伝えました。

その後、岡山県倉敷市のホテルで茅原船長の親族と初めて対面した後、墓参を行い、花束を供え亡き茅原船長に「私がこうして生きていられるのは、私の祖父母をある日本人が救ってくれたおかげ」と感謝の言葉を送りました。

茅原船長の墓を管理する茅原好子さんは、生前の茅原基治氏のことをよく覚えいましたが、茅原船長がロシア人の子どもたちを助けたという事は茅原船長の口から語られる事は無かったとそうです。

「陽明丸」の救出劇が100年間、誰からも称賛されず歴史に埋もれていた真相は?

日露戦争直後で反露感情が残っており、航海に関わった日本人乗組員が勝田社長と茅原船長さんが非国民扱いされないよう固く口を閉ざしてきたからで、本来歴史に埋もれしまう奇跡でした。

しかし、祖父母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、陽明丸の大航海から90年以上が経ってやっと茅原船長と勝田銀次郎氏の奇跡が日本中に知れ渡る事になったのでした。

本・書籍

この大航海は北室 南苑 さんにより「陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦 」のタイトルで書籍化されているので是非ご覧下さい。

まとめ

本文で書ききれなかったエピソードをまとめます。

茅原基治さんは生前、岡山県の金光中学校の恩師、佐藤範雄校長あてに、年賀のあいさつ代わりとして、手記「露西亜小児団輸送記」を送っていました。

そして、この手記は、現在、金光図書館が神徳書資料として所蔵しています。

陽明丸と茅原船長の成し遂げた偉業を、広く世間に知らしめるために活動するNPO法人「人道の船 陽明丸顕彰会」が立ち上がりました。

出典:人道の船 陽明丸顕彰会

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

スポンサーリンク