ヒストリア 今川氏真と早川殿の子孫は都内在住?無料見逃し配信動画 7月14日

2018年2月4日

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歴史秘話ヒストリア(2017年7月14日放送)は、「戦国一華麗な敗者復活戦~今川プリンスと妻の二人三脚~」と題し今川 氏真(いまがわ うじざね)とその妻・早川殿との二人三脚で、あの手この手で信長、家康といった天下人の支持をつかんでいく、戦国夫婦のサクセス物語が放送されます。

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歴史秘話ヒストリア「戦国一華麗な敗者復活戦~今川プリンスと妻の二人三脚~」みどころ

今回のヒストリアは、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」で、尾上松也演じる今川氏真(いまがわ うじざね)と西原亜希演じる蔵春院・春(はる)、後の早川殿にスポットが当てられます。

今川義元が桶狭間の戦いで破れ織田信長に討たれると今川家は衰退の一途を辿ったと思われがちですが・・・、今川義元の息子・氏真は激動の戦国をしたたかに生き抜き天寿を全うしました。

今川一族は江戸幕府で確固たる地位を得て、改名などは有りましたが、明治に至るまで250年以上、今川家を存続させました。

蹴鞠や和歌などに興じ無能と云われた氏真ですが、武将としての評価は低いのですが、織田信長より早く楽市楽座的な市場を開くなど政治的手腕は一流でした。

また、政略結婚であった為、何方かの親が敗れると離縁・・・という型に当てはまらず、今風に言えばオシドリ夫婦で今川家が敗れようと北条家に戻らず二人は夫婦として天寿を全うしました。

そんな今川氏真と妻・早川殿との二人三脚で、あの手この手で政敵織田信長には得意の蹴鞠の実演を懇願され、他にも徳川家康などの天下人の支持を鷲掴みにした、戦国夫婦のエピソードが紹介されます。

今川 氏真(いまがわ うじざね)と早川殿

今川氏真(いまがわ うじざね)は、今川義元の嫡男(ちゃくなん)で、1554年の、武田信玄(甲州)・北条氏康(相模国)・今川義元(駿河国)の間で買わされた「甲相駿三国同盟」成立の証しとして北条氏康の娘・早川殿と結婚しました。

所謂政略結婚でした。

氏真は、今川義元の生前家督を継承するも、今川義元の死後は家臣の離反が相次ぎ今川家は弱体化していき、後の歴史家からは無能な武将とも称されましたが実はシタタカな政治力を持つどちらかと言えば勇ましい武将よりも今の政治家に向いていたのかもしれません・・・。

今川家の衰退と氏真と早川殿の逃走

1560年:今川義元が桶狭間の戦いで敗れる
1568年:武田信玄が松平元康(徳川家康)と密約し、同盟を破り駿河に侵攻し、薩た峠の戦い(さったとうげのたたかい・第一次合戦)が勃発し、氏真と早川殿は掛川城に追放される
1569年:北条氏康は武田氏が礼儀として早川殿を輿を使用させず着の身着のままで逃走させた事に激高し、上杉謙信と越相同盟/越相一和(えつそうどうめい/えつそういちわ)を結ぶ
1569年:「薩埵峠の戦い・第二次合戦」が勃発し引き分けとなり、北条氏と徳川氏は同盟交渉が進み、北条氏の仲介によって掛川城開城させられる

早川殿の所以

氏真と早川殿は、掛川城開城により伊豆の戸倉城もしくは大平城に移った後、北条氏により小田原の「早川」の地に屋敷を与えられ春(はる)は、早川殿と呼ばれるようになりました。

今川家の滅亡?

1571年10月:早川殿の父・北条氏康が死去し、家督を継いだ北条氏政が甲州の武田信玄と甲相同盟を結びます、駿河は、武田なり、事実上今川家の復興を終いえました。
1571年12月:武田信玄が、今川氏真を暗殺の計画を早川殿が察知し、海路にて小田原から浜松城の徳川家康の元に逃げ延びました。
徳川家康は、今川義元に恩義がある為、早川殿は家康を頼ったと考えられています。

1576年:徳川家康により牧野城(諏訪原城)が今川氏真に与えられました。

氏真と早川殿の晩年

1577年、氏真と早川殿は牧野城を離れ、氏真の補佐役である松平家忠の「家忠日記」によると、浜松城下で生活を始めました。

この頃、髪を剃髪し宗誾(そうぎん)と名乗り始めました。

氏真と早川殿との間には長女(名は不明)を筆頭に長男の今川範以、次男・品川高久、三男・西尾安信、天正7年(1579年)には四男・今川澄存を授かりました。

徳川家康には気に入られていた様で、「家忠日記」によると、1583年には、公家近衛前久との宴に徳川家康により招かれ「寛政重修諸家譜」によると江戸品川に屋敷を与えられ江戸品川で、早川殿は、慶長18年(1613年)2月15日、氏真は慶長19年(1615年)12月28日没しました。

和歌

話は前後しますが、「言経卿記」によると氏真は、1591年、京都にて仙巌斎(仙岩斎)と名乗り公家・冷泉家の月例和歌会や連歌の会などに頻繁に参加したり、古典の借覧・書写などに興じていた様です。

「今川氏と観泉寺」には1,658首が収録され、「集外三十六歌仙」(後水尾天皇選)にも、武田信玄、北条氏康・北条氏政ら武人とも名を連ねています。

肖像画(掛け軸)

オシドリ夫婦だった事を表す、氏真と早川殿と対になった肖像画(掛け軸)が「図説静岡県史(静岡県史別編3)」によると四男・今川澄存の命により描かれています。

今川家は明治時代まで存続していた?

氏真により今川家は終焉したかに思われましたが、長女は、徳川家康とは従兄弟にあたる吉良 義定(きら よしさだ)の正室として迎えられ、次男・品川高久は、江戸幕府の第2代征夷大将軍徳川秀忠の旗本として仕え、公家として学んだ朝廷のマナーなどを幕府に教示するなど朝廷との交渉事などに活躍し、その後、高家の役職と1000石を与えられ、名字を屋敷のあった品川を秀忠に与えられ、孫の直房(なおふさ)は朝廷から宮(ぐう)の称号を与えられ、3代将軍徳川家光の権威を高めるなど、時の実力者に迎えられ今川家は、子孫を増やし、幕末には、今川氏真から12代目の今川範叙(のりのぶ)が若年寄に抜粋され大政奉還後には、15代将軍徳川慶喜の助命嘆願にも活躍し、明治維新でも政府の重要ポストにつくなど、に至るまで250年以上密かに続いていたのでした。

現在、今川家の末裔が東京都内にご在住で、毎年「桶狭間の戦い」の戦没者供養がおこなわれる「桶狭間古戦場まつり」の時は、合戦場跡の近くにある慈雲寺にお布施をしているそうです。

慈雲寺のブログ「今川義元の子孫から和菓子をいただきました。

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まとめ

今川氏真と早川殿は政略結婚であったが仲睦まじく障害を閉じた

今川一族は桶狭間の戦いで織田信長に破れ衰退していったと思われがちだが、明治に至るまで250年以上、今川家は存続していた

氏真は、蹴鞠や和歌などに興じ武将よりも公家の方が向いていた

永禄9年(1566年)4月3日・富士大宮楽市(現在の富士宮市)を織田信長(1577年)より早く開いた

早川殿の名は、蔵春院で、大河ドラマ「おんな城主直虎」では春(はる)と呼ばれ、北条氏により小田原の「早川」に屋敷を与えられた事により早川殿と呼ばれるようになった

早川殿は、只の正室では無く、武田信玄が、今川氏真の暗殺計画を察知し徳川家康の庇護の元浜松城に海路逃げた

今川氏真は徳川家康に気に入られ1577年牧野城の城主として1年過ごした

晩年は、徳川家康に与えられた江戸品川の屋敷で早川殿と最期を終えた

次男・高久は、第2代征夷大将軍徳川秀忠の旗本として仕え江戸品川の屋敷から品川の苗字を与えられた

長女は、徳川家康とは従兄弟にあたる吉良 義定(きら よしさだ)の正室として迎えられた。

本日は最後までご覧頂き有難うございました。

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