アンビリバボー 山本慈昭 300人の中国残留孤児の父!記念館の場所は?6月15日

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奇跡体験!アンビリバボー(2017年6月15日放送)は、中国残留孤児の父として300人もの人々の父親になった長野県・阿智村長岳寺の茶人帽がトレードマークの住職山本 慈昭(やまもと じしょう、1902年1月25日 – 1990年2月15日)さんが中国残留孤児の肉親探しの事業の為、国を動かした奇跡が紹介されます。

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中国残留孤児の父・山本 慈昭(やまもと じしょう)

山本 慈昭は長野県飯田市に生まれ、父親の死後、信仰心深い祖母の勧めで8歳で出家し、19歳で比叡山延暦寺で修行し、1937年、35歳で長野県・阿智村長岳寺の住職となると同時にお寺の運営資金の為、小学校の教員を兼任していましたが・・・

教員を兼任していた事が山本 慈昭氏の運命を変えてしまいます

満蒙開拓団として満州に渡る

山本 慈昭氏が長岳寺の住職となった頃の時代背景は日中戦争が勃発し、日本は大清国第12代皇帝溥儀を皇帝即位させ傀儡政権として満州国を建国しました。

1929年の世界恐慌が引き金となり、日本では1930年(昭和5年)の昭和恐慌から抜けれず人々は経済的に疲弊していました。

その対策として「満州に行けば大地主になれる」との触れ込みで満州、蒙古に貧しい農家を送り開拓する「満蒙開拓団」を入植させる政策を促進していました。

長野県からは、全国最大規模の約3万人(約50開拓団)が送り込まれました

山本 慈昭氏は、太平洋戦争敗戦の色濃い1945年の5月中旬、330名からなる阿智郷開拓団あちさとかいたくだん)の1年間の臨時教師の立場で、奥さんの千尋さんとと二人の娘、啓江さん(当時4歳)と生まれたばかりの純江さんと満州に渡りました。

ソ連が日本に対し宣戦布告

阿智郷開拓団が満州に入植して、僅か3ヶ月後の8月6日広島市に原爆が投下され、日本の降伏が近づき、その2日後の8月8日ソ連対日宣戦布告によりソ連軍が満州に攻め込んで来ました。

開拓団を守るはずの関東軍は開拓団を置き去りにし逃亡してしまいました!

阿智郷開拓団は、日本へ引き揚げ出来る港を求め逃避行を続けますが、食料が尽き餓死する物、病死、凍死、挙句は集団自決「麻山(まさん)事件」や暴徒と化した武装住民とソ連軍に挟み撃ちになりソ連軍の機銃掃射により多くの犠牲者を出した「葛根廟(かっこんびょう)事件」など悲劇そのものでした。

シベリア抑留

およそ1ヶ月の逃避行の末、8月30日ソ連軍に捕らえたれ、男の殆どはシベリアに抑留され、妻や子供と引き離され、山本 慈昭氏も例外では無く、奥さんの千尋さんとと二人の娘と引き離されました。

復員

抑留から約2年後の1947年(昭和22年)春、日本へ復員が叶い帰国しました。

しかし、母親から聞かされたのは、妻の千尋さんが赤ん坊の純江さんを背負ったまま、川に流されて母子共に絶命し、長女の啓江さんも命を絶ったとの悲しい知らせでした。

それだけでなく、阿智郷開拓団の8割が帰らぬ人となり、教え子達の生存者は、当初の51人中、僅か6人という事も知りました。

訪中

山本 慈昭氏は、開拓団の仲間達の辿った運命を「阿智村・死没者名簿」としてまと上げました。

その頃、天台宗・半田大僧正から「長野県日中友好協会会長」を引き受ける話が出て、その際、平岡ダム建設のため強制連行された中国人の事実を知り犠牲になった中国人労働者の261人の遺骨を本国へ返す運動に力を注ぎ、1964年秋、訪中しました。

そして、満州の地に眠る家族や仲間の遺骨収集の許可を得るたいと、当時の首相であった周恩来氏と会談に成功しますが、遺骨収集の許可は政治的な問題が絡み下りることは有りませんでした。

残留孤児からの一通の手紙

訪中から1年経った1965年中国・黒龍江省チチハル在住の日本人孤児の女性から山本 慈昭氏の元に一通の手紙が届きました。

なんらかのつてで山本 慈昭氏の事を知ったのでしょう。

手紙には、ソ連から逃げる際、子供だけでもと優しい中国人に預けられ両親と離れ離れにされた子供達が沢山居て、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが切々と書かれていました。

山本 慈昭氏は涙を止める事が出来ませんでした・・・。

残留孤児達の日本帰国救済運動を考えますが、折しも中国では文化大革命が起こっており、孤児が日本人だと知れると迫害される恐れがあるとの葛藤が有りました。

真実を知る

1969年、開拓団の一員であった病床の田中与一という老人が死期を悟ったのか、亡くなる2日前、山本 慈昭氏に驚愕の事実を伝えます。

田中与一氏によれば、阿智村の子供達は、全員死んだと語られているが、それは作り話で、子供達は命を助ける為、中国人に預けられたという事実が語られました。

そして、その中には、山本 慈昭氏の長女の啓江ちゃん含まれているとも!

山本 慈昭氏は自分の娘を含む残留孤児探しをライフワークにする事を決め、1970年(昭和45年)にNHKの強力により中国本土で、情報提供に呼びかける日本語と中国語の両方での放送を実現させました。

「日中友好手をつなぐ会」設立

1972年9月、日中国交が回復し、の翌1973年「日中友好手をつなぐ会」を結成し、中国残留孤児達から手紙も届くようになりました。

1980年、手紙のやり取りでは不十分と感じ、残留孤児達の生の声を聞くため「日中友好手をつなぐ会」のメンバー26人と共に訪中しました。

訪問地は吉林、長春、ハルピン、瀋陽の4都市、滞在期間は2週間の現地調査でした。

吉林市では、政府が認めた約30人の孤児達のみとの面会予定でしたが、政府が許可を与えなかった残留孤児300人が宿泊していたホテルの前に押しかけ座り込み、役人も根負けし、山本 慈昭氏は300人の残留孤児と聞き取り調査を行う事が出来ました。

そして、「皆さんの親を最後の一人まで捜します」と残留孤児の目の前で宣言しました。

省庁が重い腰を上げた

長年山本 慈昭氏は、旧厚生省(現・厚生労働省)に残留孤児帰還運動の予算可を懇願する為、長野県~霞が関の往復を続けましたが、1980年、園田直厚生大臣(当時)と会談が実現し、残留孤児帰還運動予算化が即刻認められられました。

300人の父親になる!

翌年1981年から残留孤児の集団訪日調査が実現し、3月2日、47人の中国残留孤児たちが、第1回集団訪日調査として、成田空港に到着しました。

2週間の滞在中、約半分の24人の身元が判明しましたが、肉親が見つからなかった残りの孤児達は、泣き崩れました。

山本 慈昭氏は、両親が見つからなかった残留孤児彼らの手をく握りしめ、目に涙をいっぱいためながら語りかけました。

「今日から、私が皆さんの父親になります。

いつでも日本に来て下さい。

私の家に来て下さい。」

と・・・。

実際に長岳寺近くの自宅を孤児たちに開放し、1985年に永住帰国した残留孤児家族の生活支援として長岳寺の門前に「広拯会館」をオープンさせました。

ここでは、日本語や日本の生活習慣を学び、日本社会に溶け込むための訓練が行われました。

広さは、5世帯25人まで収容可能で、これまで200世帯以上が今まで利用しています。

山本 慈昭氏 慈昭氏は、自身の老齢年金や家も抵当に入れて資金を捻出しました。

長女・啓江さんとの再会>

1981年5月、山本 慈昭氏の元に2ヶ月前中国訪日した残留孤児から一本の電話が入りました。

山本さんの娘さんの啓江さんが見つかりました!

残念ながら肉親との再会が出来なかった残留孤児達が中国帰国後、日本の父親の山本 慈昭氏の為に手分けして山本の娘を捜し歩いてくれていたのでした!

山本 慈昭氏は、啓江さんが待つ黒龍江省に飛びました。

36年ぶりに再会した啓江さんは、40歳とは思えない深いしわが刻まれていましたが間違いなく幼くして別れた娘に違いありません・・・。

再会に山本親娘はずっと手を握りしめ、声を上げて泣きました。

そして8年後、啓江さんの永住帰国が叶いました。

残留孤児の帰国事業をライフワークに100歳まで生きると常々語っていた山本 慈昭氏は、1990年2月15日、慢性呼吸不全のため、88歳で人生の幕を閉じました。

山本 慈昭氏の葬儀場は、慈昭氏が死力を尽くしたお陰で帰国を果たした全国から集まった元残留孤児達で埋め尽くされ、父親・山本 慈昭氏を送り出しました。

まとめ 山本慈昭記念館

長野県は、「長野県満州開拓史」によると日本一の約32,992人に登る数の移民を満州に送ったが1万6000人超が未帰還

阿智郷から満州に渡った 175 人のうち、無事に帰国できたのはわずか45 人

最後に山本慈昭氏の孤児やその肉親たちとのやり取りの手紙など貴重な品が展示されている山本慈昭氏の記念館が住職を努めた阿智村・長岳寺側の「満蒙開拓平和記念館」に有ります。

満蒙開拓平和記念館住所:長野県下伊那郡阿智村駒場711-10


TEL:0265(43)5580


開館時間:午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)


休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、毎月第2・4水曜日


入館料(一般):500円(団体400円)※団体20名以上


入館料(小中高生):300円(団体200円)※団体20名以上

また、阿智村・長岳寺は、三河侵攻の時に急逝した武田信玄を火葬にしたお寺で供養塔も有ります。

本日は最後までご覧いただきありが奇跡体験!アンビリバボー(2017年6月15日放送)は、中国残留孤児の父として300人もの人々の父親になった長野県・阿智村長岳寺の茶人帽がトレードマークの住職山本 慈昭(やまもと じしょう、1902年1月25日 – 1990年2月15日)さんが中国残留孤児の肉親探しの事業の為、国を動かした奇跡が紹介されます。

中国残留孤児の父・山本 慈昭(やまもと じしょう)

山本 慈昭は長野県飯田市に生まれ、父親の死後、信仰心深い祖母の勧めで8歳で出家し、19歳で比叡山延暦寺で修行し、1937年、35歳で長野県・阿智村長岳寺の住職となると同時にお寺の運営資金の為、小学校の教員を兼任していましたが・・・

教員を兼任していた事が山本 慈昭氏の運命を変えてしまいます

満蒙開拓団として満州に渡る

山本 慈昭氏が長岳寺の住職となった頃の時代背景は日中戦争が勃発し、日本は大清国第12代皇帝溥儀を皇帝即位させ傀儡政権として満州国を建国しました。

1929年の世界恐慌が引き金となり、日本では1930年(昭和5年)の昭和恐慌から抜けれず人々は経済的に疲弊していました。

その対策として「満州に行けば大地主になれる」との触れ込みで満州、蒙古に貧しい農家を送り開拓する「満蒙開拓団」を入植させる政策を促進していました。

長野県からは、全国最大規模の約3万人(約50開拓団)が送り込まれました

山本 慈昭氏は、太平洋戦争敗戦の色濃い1945年の5月中旬、330名からなる阿智郷開拓団あちさとかいたくだん)の1年間の臨時教師の立場で、奥さんの千尋さんとと二人の娘、啓江さん(当時4歳)と生まれたばかりの純江さんと満州に渡りました。

ソ連が日本に対し宣戦布告

阿智郷開拓団が満州に入植して、僅か3ヶ月後の8月6日広島市に原爆が投下され、日本の降伏が近づき、その2日後の8月8日ソ連対日宣戦布告によりソ連軍が満州に攻め込んで来ました。

開拓団を守るはずの関東軍は開拓団を置き去りにし逃亡してしまいました!

阿智郷開拓団は、日本へ引き揚げ出来る港を求め逃避行を続けますが、食料が尽き餓死する物、病死、凍死、挙句は集団自決「麻山(まさん)事件」や暴徒と化した武装住民とソ連軍に挟み撃ちになりソ連軍の機銃掃射により多くの犠牲者を出した「葛根廟(かっこんびょう)事件」など悲劇そのものでした。

シベリア抑留

およそ1ヶ月の逃避行の末、8月30日ソ連軍に捕らえたれ、男の殆どはシベリアに抑留され、妻や子供と引き離され、山本 慈昭氏も例外では無く、奥さんの千尋さんとと二人の娘と引き離されました。

復員

抑留から約2年後の1947年(昭和22年)春、日本へ復員が叶い帰国しました。

しかし、母親から聞かされたのは、妻の千尋さんが赤ん坊の純江さんを背負ったまま、川に流されて母子共に絶命し、長女の啓江さんも命を絶ったとの悲しい知らせでした。

それだけでなく、阿智郷開拓団の8割が帰らぬ人となり、教え子達の生存者は、当初の51人中、僅か6人という事も知りました。

訪中

山本 慈昭氏は、開拓団の仲間達の辿った運命を「阿智村・死没者名簿」としてまと上げました。

その頃、天台宗・半田大僧正から「長野県日中友好協会会長」を引き受ける話が出て、その際、平岡ダム建設のため強制連行された中国人の事実を知り犠牲になった中国人労働者の261人の遺骨を本国へ返す運動に力を注ぎ、1964年秋、訪中しました。

そして、満州の地に眠る家族や仲間の遺骨収集の許可を得るたいと、当時の首相であった周恩来氏と会談に成功しますが、遺骨収集の許可は政治的な問題が絡み下りることは有りませんでした。

残留孤児からの一通の手紙

訪中から1年経った1965年中国・黒龍江省チチハル在住の日本人孤児の女性から山本 慈昭氏の元に一通の手紙が届きました。

なんらかのつてで山本 慈昭氏の事を知ったのでしょう。

手紙には、ソ連から逃げる際、子供だけでもと優しい中国人に預けられ両親と離れ離れにされた子供達が沢山居て、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが切々と書かれていました。

山本 慈昭氏は涙を止める事が出来ませんでした・・・。

残留孤児達の日本帰国救済運動を考えますが、折しも中国では文化大革命が起こっており、孤児が日本人だと知れると迫害される恐れがあるとの葛藤が有りました。

真実を知る

1969年、開拓団の一員であった病床の田中与一という老人が死期を悟ったのか、亡くなる2日前、山本 慈昭氏に驚愕の事実を伝えます。

田中与一氏によれば、阿智村の子供達は、全員死んだと語られているが、それは作り話で、子供達は命を助ける為、中国人に預けられたという事実が語られました。

そして、その中には、山本 慈昭氏の長女の啓江ちゃん含まれているとも!

山本 慈昭氏は自分の娘を含む残留孤児探しをライフワークにする事を決め、1970年(昭和45年)にNHKの強力により中国本土で、情報提供に呼びかける日本語と中国語の両方での放送を実現させました。

「日中友好手をつなぐ会」設立

1972年9月、日中国交が回復し、の翌1973年「日中友好手をつなぐ会」を結成し、中国残留孤児達から手紙も届くようになりました。

1980年、手紙のやり取りでは不十分と感じ、残留孤児達の生の声を聞くため「日中友好手をつなぐ会」のメンバー26人と共に訪中しました。

訪問地は吉林、長春、ハルピン、瀋陽の4都市、滞在期間は2週間の現地調査でした。

吉林市では、政府が認めた約30人の孤児達のみとの面会予定でしたが、政府が許可を与えなかった残留孤児300人が宿泊していたホテルの前に押しかけ座り込み、役人も根負けし、山本 慈昭氏は300人の残留孤児と聞き取り調査を行う事が出来ました。

そして、「皆さんの親を最後の一人まで捜します」と残留孤児の目の前で宣言しました。

省庁が重い腰を上げた

長年山本 慈昭氏は、旧厚生省(現・厚生労働省)に残留孤児帰還運動の予算可を懇願する為、長野県~霞が関の往復を続けましたが、1980年、園田直厚生大臣(当時)と会談が実現し、残留孤児帰還運動予算化が即刻認められられました。

300人の父親になる!

翌年1981年から残留孤児の集団訪日調査が実現し、3月2日、47人の中国残留孤児たちが、第1回集団訪日調査として、成田空港に到着しました。

2週間の滞在中、約半分の24人の身元が判明しましたが、肉親が見つからなかった残りの孤児達は、泣き崩れました。

山本 慈昭氏は、両親が見つからなかった残留孤児彼らの手をく握りしめ、目に涙をいっぱいためながら語りかけました。

「今日から、私が皆さんの父親になります。

いつでも日本に来て下さい。

私の家に来て下さい。」

と・・・。

実際に長岳寺近くの自宅を孤児たちに開放し、1985年に永住帰国した残留孤児家族の生活支援として長岳寺の門前に「広拯会館」をオープンさせました。

ここでは、日本語や日本の生活習慣を学び、日本社会に溶け込むための訓練が行われました。

広さは、5世帯25人まで収容可能で、これまで200世帯以上が今まで利用しています。

山本 慈昭氏 慈昭氏は、自身の老齢年金や家も抵当に入れて資金を捻出しました。

長女・啓江さんとの再会>

1981年5月、山本 慈昭氏の元に2ヶ月前中国訪日した残留孤児から一本の電話が入りました。

山本さんの娘さんの啓江さんが見つかりました!

残念ながら肉親との再会が出来なかった残留孤児達が中国帰国後、日本の父親の山本 慈昭氏の為に手分けして山本の娘を捜し歩いてくれていたのでした!

山本 慈昭氏は、啓江さんが待つ黒龍江省に飛びました。

36年ぶりに再会した啓江さんは、40歳とは思えない深いしわが刻まれていましたが間違いなく幼くして別れた娘に違いありません・・・。

再会に山本親娘はずっと手を握りしめ、声を上げて泣きました。

そして8年後、啓江さんの永住帰国が叶いました。

残留孤児の帰国事業をライフワークに100歳まで生きると常々語っていた山本 慈昭氏は、1990年2月15日、慢性呼吸不全のため、88歳で人生の幕を閉じました。

山本 慈昭氏の葬儀場は、慈昭氏が死力を尽くしたお陰で帰国を果たした全国から集まった元残留孤児達で埋め尽くされ、父親・山本 慈昭氏を送り出しました。

まとめ 山本慈昭記念館

最後に山本慈昭氏の孤児やその肉親たちとのやり取りの手紙など貴重な品が展示されている山本慈昭氏の記念館が住職を努めた阿智村・長岳寺側の「満蒙開拓平和記念館」に有ります。

満蒙開拓平和記念館住所:長野県下伊那郡阿智村駒場711-10


TEL:0265(43)5580


開館時間:午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)


休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、毎月第2・4水曜日


入館料(一般):500円(団体400円)※団体20名以上


入館料(小中高生):300円(団体200円)※団体20名以上

また、阿智村・長岳寺は、三河侵攻の時に急逝した武田信玄を火葬にしたお寺で供養塔も有ります。

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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