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ペギーに夫ビリー・ハリスの死後62年知らされた奇跡!アンビリバボー!7月20日 動画

time 2017/07/20

ペギーに夫ビリー・ハリスの死後62年知らされた奇跡!アンビリバボー!7月20日 動画
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奇跡体験!アンビリバボー(2017年7月20日放送)は、第二次世界大戦が終結して60年後、ヨーロッパ戦線で行方不明になった文通で知り合った夫の米軍パイロット「ビリー・ハリス」が、墜落したレ・ヴォント村を命を賭して守り60年もの間、英雄として祀られている事を知った戦争未亡人ペギーの奇跡のストーリーと、中華料理店「八宝亭」の家族4人が殺害され貯金通帳が盗まれたものの現金の引き下ろしに失敗し共犯の住み込み女性の供述で同じ住み込みの見習いが逮捕され週間後服毒自殺で幕を閉じた「築地八宝亭一家殺人事件」が紹介されます。

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ペギーとビリー・ドウ・ハリス中尉の結婚は文通から交際に発展した

ペギー・セールはアルトゥス空軍基地で電子機器のメカニックとして働いていました。
同じ職場に、やがて夫となるビリー・ドウ・ハリス(Billie D. Harris)の父親も働いていました。

ビリー・ハリス中尉はその当時、サンアントニオのブルックスエアフィールドで陸軍空軍の飛行士を務め、飛行訓練を受けていました。

いつもハリスはペギーに自分の自慢の息子のビリーの話をしていて、ペギーも3歳年上の(当時18歳、ビリーは21歳)ビリーに興味を持つようになりました。

そしていつからか、ビリーの父親を介してビリーとペギーの文通が始まりました。

文通から数ヶ月後ビリーがペギーと初めてデートに誘いました。

ビリーは、美しいペギーに一目惚れし、交際に発展し、1943年9月22日、ビリー・ハリスとペギー・セールは結婚しました。

士官学校を卒業したばかりで訓練中のビリーには結婚指輪を買う余裕が無く代わりにヴァーノンハイスクールのクラスリングを贈りました。

史上最大の作戦

しかし、訓練を終えたビリーは、結婚から6週間後、新婚旅行の休暇も却下され、連合軍の大反抗戦・映画「史上最大の作戦」で知られるD-DAY(ノルマンディー上陸作戦)に向け、ヨーロッパの最前線に送られました。

配属先は、イギリスの南東部に駐留する第355戦闘飛行隊/第354戦闘班で、彼に与えられた任務は爆撃機の護衛で、愛機は第2次世界大戦の最優秀戦闘機として日本軍、ドイツ軍を苦しめたノースアメリカンP-51マスタングでした。

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戦場で成果も上げ、栄誉を讃えられ、11のオークリーフクラスターの他、殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)も受賞しました。

そして、1944年7月までに60〜100件のミッションを完了すれば、帰国する資格を得ました。

当時、連日休みなく消耗品の如く戦い続ける日本軍と違い、米軍のパイロットは、与えられたミッションをこなすと2週間以上のリフレッシュ休暇が与えられるローテーションが組まれていました。

その資格をビリーは得ていたのでした。

1944年7月8日の日付のビリーがペギーに宛てた手紙には、「帰りの船は負傷者を優先に割り当てられているので、家に帰るのは時間がかかるかもしれない」と記載されれていたそうです。

戦場からもビリーとペギーの文通は続きますが、検閲などで詳しい事はかけませんが、ビリーが任務で連日飛行している事はペギーには分かっていました。

行方不明を伝える電報

1944年7月下旬、ペギーの元に1944年7月7日の時点で夫が「行方不明」であることを伝える電報が届きました。

しかし、ペギーの元には、1944年7月8日の日付の手紙が届いていたので、電信局のミスか、軍のミスでは無いかと問いただしました。

その後、1944年7月17日に、行方不明との第2の電報が入りました・・・。

情報は錯綜し、連合軍のフランス軍(SHEAF)最高司令部からハリス中尉が米国に帰国した報が入りますが、これも誤報で、ペギーは、赤十字に援助を求めました。

赤十字の回答は、恐らく何処かの軍事病院で「処置されていた」との回答で、記憶を失い帰る事が出来なくなった事例の一つに含まれているかもしれない という事例を信じていました。

ドイツ軍の敗戦も間近に迫った1945年3月に、ハリス中尉に関する情報が届かなくなり、ペギーは、ワシントンDCのエド・ゴセット元議員を通し、スイスの赤十字に行き、軍の病院に連絡が取れるかどうか尋ねました。

残念ながら情報は行方不明、戦死など錯綜しており、誰も戦場で、ビリーに何が起きたか?は把握されていませんでした・・・。

そして、ヨーロッパ戦線は1945年5月8日ドイツの降伏で幕を閉じました・・・。

第二次世界大戦終結から3年経った1948年にペギーは、ハリス中尉の遺骨がどこにあるのかを彼女に要求する政府の書式を受け取った。

しかし政府からの回答は冷たく、ビリーの父親は、弁護士を通じ米陸軍の利益の為にこの件は解決した旨の書類にサインさせられました・・・。

1980年代にビリーの両親はビリーの生存を信じ続け、亡くなりました。

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陸軍のファイルにビリーに関する情報が!

第二次世界大戦終結から約60年が経過し、ビリーが亡くなって誕生した従兄弟のアルトン・ハーベイ(Alton Harvey)は、ビリーの事について仕事を引退した後、会った事のない従兄弟ビリーの事を調査していました。

そして、陸軍のファイルにビリーの遺体は、フランスに埋葬された記載されている事を突き止めました。

同じ頃、ヴァレリエ・クレスネル(Valerie Quesnel)というフランスの女性も同じファイルについて調査していました。

彼女はレ・ヴォントに在住で、2004年にフランスの解放の60周年を祝う行事の理事でした。

2004年のレ・ヴォントの式典に出席したノルマンディ航空追憶協会会長(Normandy Association for the Remembrance of Aerial)Huard氏は、レ・ヴォントに カナダのビル・ダリス・ハリス(Billie D’Harris) の墓が祀られている事を報告しましたが、Huard氏は、カナダ兵では無くアメリカ兵では無いか?
と市議会に報告しました。

その情報を知ったクレスネルさんは、墓地の情報をバージニア州アレキサンドリアの陸軍部に報告し、内容を突き合わせた所、レ・ヴォントに墓があるのは、カナダ兵のビル・ダリス・ハリスでは無く、アメリカ陸軍のビリー・ダリス・ハリス、つまりペギーの夫と判明したのでした!

その情報は、ペギーの元にクレスネルさんからの手紙で知らされ、二人の間で文通が始まり、レヴェンツという小さな町に感謝の意を表する手紙を送りました。

レ・ヴォントのメインストリート名前にビリー・ダリス・ハリスの名が!

夫の行方不明から62年が経過した2006年4月、ペギーがクレスネルさんの手引により、遂に夫ビリー・ダリス・ハリスの墓参りに訪れる日が来ました。

そして、メインストリートの名前に驚きます。

道路標識には「”Place Billie D’Harris”ビリー・ダリス・ハリス広場」と冠されていたのでした!

ビリーはレ・ヴォント村を救った英雄だった!

ペギーは、この村の生き証人ギ・サロウ氏から夫ビリーの最期の真実を打ち明けられました。

「1機の連合軍機が、ドイツ軍の攻撃により被弾し、コントロールを失いかけて、レ・ヴォントの村に墜落しそうになっていました。
しかし、勇敢にもパイロットは脱出よりも墜落しかけている乗機を死に物狂いでコントロールし、村を迂回し、森に突っ込む事を選びました。
そして私たちは、パイロットを救い出そうと不時着地点に辿り着き、機体からパイロットを引きずり出しましたが、もう絶命していました・・・
救うことが出来ずに申し訳ない・・・」と涙ながらに語りました。

しかし、ペギーは「いいえ、もう十分でです、夫に意識があったら友達(救助にかけつけたギ・サロウさん達)はまだ元気ですよと伝えたいです」と語りかけ抱き合いました。

ビリーはパラシュートで脱出も可能だったはですが、脱出した場合、愛機P-51が村を直撃し炎上した場合、第355戦闘飛行隊基地への帰路の為残した大量の燃料に引火し、レ・ヴォントの村が大火事になってしまったはずです。

しかし、咄嗟の判断で、ビリーは命を賭して森へ突っ込み被害を最小限に食い止める道を選びました。

その勇気を讃え、村民は、村に遺体を埋葬し墓標を建てました。

その後遺体は、ノルマンディー米軍英霊墓地(Normandy American Cemetery and Memorial)に移されましたが、レ・ヴォント村の墓標はそのまま残されており、フランスの解放と英雄ビリーを讃え、年に3回パレードが行われています。

ペギーの空白の約60年間毎年、レ・ヴォント村の人々は英雄ビリーに黙祷を捧げてくれていたのでした。

◆ペギーがレ・ヴォントを初めて訪れた時の動画
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この日からレ・ヴォント村の人々との交際は続き、毎年ペギーは、墜落現場とお墓を訪れているそうです。

まとめ

日付からするとビリーが撃墜された1944年7月17日のノルマンディーの前線では、戦闘記録によれば「砂漠の狐」と呼ばれ連合軍から恐れられたエルヴィン・ロンメル元帥の乗用車がカナダ空軍第602飛行隊のスーパーマリン・スピットファイアの機銃掃射を受け、ロンメル元帥は頭部に重傷を負って入院した記録が残っています。

スピットファイアとP-51は同じロールスロイス製エンジンを搭載しており形も似ている事からカナダ軍のパイロットと誤認されたのかもしれません。

また、ビリーが最後に出撃した日は、P-51で無くリパブリックP-47サンダーボルトで出撃したとの情報も有ります。

同じ放送日に紹介される、築地の中華料理店「八宝亭」起きた一家殺害事件については別ページに投稿しています。

コチラも併せてご覧ください。

本日は、最期までご覧頂き有難うございました。

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